2-2.宇和島本とメット本善徳寺本が伝来した富山県南砺市城端町の廓龍山・善徳寺は、本願寺第5代綽如上人の曾孫・蓮真が、蓮如上人を開祖として文明年間(1469~1486)に建立したと伝えられる、真宗大谷派の古刹である。江戸時代においては加賀藩の庇護が厚く、浄土真宗の触頭として多くの寺院を統括する存在であった。更に、加賀藩第13代当主前田斉泰の子・亮五郎が住職を務めるなど、藩の子女が入寺していた歴史もあり、現在善徳寺が所蔵する狩野永岳筆「舞楽図衝立」は、亮五郎の持参品であったという(注10)。その他、善徳寺に伝わる宝物の多くは、藩の子女の婿入り、嫁入り道具などであったとされている(注11)。善徳寺本の制作背景は不明であるが、人物や背景描写に見られる丁寧な筆致、鮮やかな色彩、群青の海に少しのせられた金砂子など優美な雰囲気の漂う善徳寺本は、まさに藩にとって重要な寺、藩主の子の御座す空間にふさわしいものと言えよう。次に、宇和島本〔図7〕〔図9〕とメット本〔図8〕〔図10〕を取り上げたい。宇和島本については未だ熟覧は叶っていないが、2015年秋に仙台市博物館で開催された「宇和島伊達家の名宝―政宗長男・秀宗からはじまる西国の伊達―」展で拝見することが出来たので、そこから分かったことを述べていきたい。宇和島本は、「興甫筆」の落款があることから、紀州徳川家のお抱え絵師、狩野興甫(?~1671)によって制作されたものと考えられている。興甫は、当時の幕府の御用絵師であった狩野探幽(1602~1674)と、その兄弟である尚信・安信らに絵の指導をしたと言われている狩野興以(?~1636)の長子で、記録によれば、日光東照宮や江戸城本丸御殿の造営など、探幽が主導した幕府の画事に参加していたことが分かっている。探幽らと何かと接点のあった興甫の存在は、紀州藩にとっては探幽らに画事を依頼するのに重要であったとされている(注12)。宇和島伊達家に伝来した美術工芸品は、贈答品や嫁入り道具として他家から入ってきたものが多いという(注13)。宇和島本についても、贈答品として紀州からもたらされたものなのであろうか。伝来に関してはまだ調べきれていないが、宇和島本の合戦図とは思えぬ金地金雲の煌びやかな様相からは、大名家にふさわしい、格式の高さを感じさせよう。そして、この宇和島本に最も近いのが、メット本である。各エピソードの描写、人物の配置、画面全体に広がる金雲の形まで近似している。例えば、両作例の右隻5、6扇に描かれている〈師盛最期〉は、船が転覆し海上に投げ出された平師盛が敵方に― 49 ―
元のページ ../index.html#60