れてきた智積院本系統は、近世を通して繰り返し制作され、「一の谷・屋島合戦図屏風」の中でも最も流布した“型”であったと言えるのではなかろうか。また、大英本・善徳寺本系、宇和島本・メット本系というように、智積院本系統の中で更に複数の系統が存在していた可能性がある。今後は“智積院本と同系統”という分類や、“智積院本系統”という呼称も改めなければならないかもしれない。なお、ここでは智積院本そのものと天真寺本については取り上げていないが、実は両作例に近い作例は今のところ確認出来ていない(注15)。今後、発見される可能性もあろう。おわりにところで、「一の谷・屋島合戦図屏風」が数多く制作されてきた背景には、江戸時代の武士たちが源頼朝によって武家社会が始められた歴史を再認識し、源平合戦における様々な戦い方から“武士としての規範”を学ぶなどの教育的な目的があったのではないかとの見解が成されている(注16)。宇和島伊達家のような大名が所持していることからも納得されよう。その中で今後考えていかなければならないのは、善徳寺のような寺院に「一の谷・屋島合戦図屏風」が伝来していることである。東京・池上本門寺の塔頭である永寿院には、物語の主要なエピソードを4場面ずつ選んで描いた、六曲一双の「一の谷・屋島合戦図屏風」が伝来している。樹木の描かれ方などから見て近世の狩野派による作例であると考えられるが、ところどころに散りばめられた金砂子や金箔、墨線でもって描かれた海など、どこか古様を意識した造りとなっている。池上本門寺は江戸における紀州徳川家の菩提寺であり、紀州徳川頼宣の娘で鳥取藩主・池田光仲の妻である芳心院(茶々姫、1631~1708)に篤く信仰されていた。その芳心院の帰依を受けた永寿院は、紀州徳川家の墓所管理寺院としての役割があった(注17)。更に、鳥取・松江藩歴代藩主の本陣宿であった八雲本陣にも、金を多用した煌びやかな「一の谷・屋島合戦図屏風」(以下、八雲本陣本)が伝来しており、当時の記録から藩主が訪問した際に御座の間に飾られていたことが分かっている。八雲本陣本について並木誠士氏は、“本屏風の華やかな装飾性は、本陣における室礼の具としてもふさわしいと認識されたことを示しているのではないだろうか”と述べている(注18)。このことから、「一の谷・屋島合戦図屏風」には室内調度としての役割、それも飾ることによって武家のアイデンティティを表す機能があったのではなかろうか。そのように考えると、寺院であっても加賀藩主の子が住職を務めていた善徳寺や紀州徳川家ゆかりの永寿院に伝来しているのも頷けよう。― 51 ―
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