王維を次のランクの「妙品上」に格付けしている(注6)。この品評は着色か水墨かによる判断ではなく、王維は朱景玄の頃までに水墨山水によって注目されることはなかったことが分かる。中唐以降、水墨による山水・樹石図の興起に伴い、墨が徐々に重視されるようになった。唐末五代の『筆法記』には墨が絵画の「六要」の一つとして挙げられる。そして王維は「筆墨宛麗、気韻高清」と賞賛され、逆に李思訓は「雖巧而華、大虧墨彩」と批判される(注7)。ここに水墨の重視に伴う、美意識の変化を窺うことができる。北宋になると、王維が水墨画を得意とする画家であるというイメージは一層強くなった。郭若虚の『図画見聞誌』では董源の山水画は「水墨類王維、着色如李思訓」(注8)と記され、董源画における水墨は王維の特徴、着色は李思訓の特徴を持つものとして区別されている。また、李思訓画が着色山水であるという認識も、北宋には一般的となった。『宣和画譜』においては李思訓については「今人所画着色山、往往多宗之」(注9)と記される。李思訓と言えば着色画、というイメージの浸透していく様が窺われる。こうした李思訓、王維に対するイメージは、宋人が二人の絵画を判別する際にも影響を及ぼした。米芾はその『画史』で、当時の人は蜀人の描いた着色画を李思訓の作品と見なしたこと、蜀人である李昇の山水画を李思訓の作品として偽造していたことを記している(注10)。五代の蜀は唐代の宮廷画風を引き継いだ地であった。さらに李昇は蜀で「小李将軍」と呼ばれており(注11)、彼の画風は李氏父子の着色画風に似ていたことが推測される。そのため、蜀人の着色山水や李昇画と李思訓画との見分けは、宋人にとっては困難なことであったのだろう。一方、米芾の別の記事によれば、蜀で制作された騾綱図、剣門関図、雪山などの主題の絵画、及び江南人の描く雪図は、いわゆる「清秀」な表現が見出された場合、王維の作品と見なされることが多かった(注12)。ここでいう「清秀」な表現とは、どのようなものだろうか。伝王維「長江積雪図」(ホノルル・アカデミー美術館蔵)〔図1〕と伝南唐趙幹「江行初雪図」(台北故宮博物院蔵)〔図2〕から、このことについて考察が可能かもしれない。「長江積雪図」は、唐代の王維画風をどの程度伝えるかは不明であるが、十一世紀後半から流行していた王維雪図の面影を残している(注13)。この作品は主に水墨で描かれ、人物、家屋、蘆や一部の紅葉などに色を施す水墨淡彩画である。また、伝南唐趙幹「江行初雪図」は北宋人が見た王維「捕魚図」と共通する構図を持つと思われる(注14)ことから、北宋に王維画とされた雪図の一様式と考えられる。この図は淡墨で絹地を染め、胡粉で雪の散る様を表現し、人物、船、蘆、枯れた葉、岩などに色― 58 ―
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