を施す。顔料の跡を見る限り、当初は一部の色を厚手に施していた可能性もあるが、全体的には水墨を主として描かれた作品である。この二画の表現は唐代宮廷画風の青緑着色に比べ、より素朴である。王維が詩人という身分であったこと、そして水墨による山水画を手がけたことが、宋人により「清秀」という特質と結び付けられたのであろう。「清秀」というのは、李思訓画における華麗で鮮やかな色彩に対置されるイメージであったと考えられる。即ち、宋人にとって、李思訓画は華麗で鮮やかな色彩の着色山水、王維画は水墨を主として描かれる作品であり、この点が二人の間の大きな相違として認識されていたのである。二、南方的な江湖景色宋人の筆記や題画詩において言及される王維と李思訓の山水画は、ほとんどが江湖景色を描いたものであった。しかも王維と李思訓は生涯にわたり主に北方で活躍したにも拘わらず、彼らの山水画はしばしば南方のイメージと結び付けられている。米芾は小景画の名手として有名な趙令穰を「雪景類世所収王維、汀渚水鳥、有江湖意」(注15)と評している。王維の雪図に類似する趙令穰の雪景が「江湖意」を有するならば、それは同時に王維の雪図が「江湖意」を持つということを示唆する。前述した王維の雪図に関係づけられる「長江積雪図」は、いくつかの山や険しい丘が描かれるが、画面の半分ほどを水面と空が占ており、長く遥かに流れる川の平遠な景色を表現した、江湖景色を描くものである。また、伝趙幹「江行初雪図」は南方の風物を主題とし、魚を捕る漁師の姿を描写しており、近景に集中して江湖景色を描いた作品である。そのほか、南宋の白玉蟾(1194-1229)には「王維筆下多山水、千山万水一弾指、万頃玻瓈碧欲流、千層翡翠波上浮。(中略)。有時移却瀟湘岸、移入洞庭彭蠡畔、有時掇過天台山、相對雁蕩煙雨寒」(注16)という詩句が見出される。瀟湘、洞庭湖、彭蠡湖、天台山、雁蕩山はいずれも南方の景勝地である。この詩句は王維画における江湖景色の描写をはっきりと示すと共に、画中の風景を南方の景勝地に喩えている。山水画や実景を南方の景勝地に喩えること自体は、唐宋の詩詞に頻繁に見出されるものである。しかし米芾の記事に鑑みると、北宋に流布していた王維の山水画の多くは南方の江湖風景を描写したものだったと考えられる。即ち、王維画と南方のイメージを結びつけることは、文学的比喩にとどまらず、これらの王維画が実際に南方の景色を描写した山水画だったことを示しているのではないだろうか。李思訓の場合も同様のことが言える。蘇軾には、李思訓の「長江絶島図」を題に持― 59 ―
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