の小景画風には、唐代画家の王維、李思訓、江都王の典型を見ることができるという。この跋文によれば、王維、李思訓、江都王の山水画が小景画であったと想定される。また、南宋の周密(1232-1298)も李思訓の「渓山」という作品について、「満巻皆小景」(注20)と評している。もちろん、これらの王維、李思訓、江都王の絵画は、ほとんど宋代において彼らの手によると見なされていた作品であったと考えられる。そして、1120年に成書された『宣和画譜』では日本の着色山水が小景と呼ばれている(注21)。『宣和画譜』に記録される日本の着色山水は、内府に所蔵される十二世紀初までのものである。十二世紀以前の日本で描かれた着色山水で現存する作例は東寺旧蔵の十一世紀の「山水屏風」〔図8〕、十二世紀の「源氏物語絵巻」(德川黎明会蔵)〔図9〕と厳島神社蔵「彩絵檜扇」〔図10〕である。「山水屏風」には紆曲する広い川が描かれ、手前の近景に向かって流れてくる。連々たる峰巒は川の両側に配置され、画面の全体には平遠の景色が見られる。また、「源氏物語絵巻」中の「東屋」段には、山水画が画かれる襖障子と几帳がある。襖障子の画面にはいくつかの浮島がちりばめられ、画面の上部は見えないが、全体は平遠の空間構成と推測でき、唐代の神仙山水における海に浮かぶ仙島の構図に近いと考えられる。そして手前の几帳の山水画は着色ではなく、銀で描かれるが、その空間構成は襖障子と共通する。厳島神社の「彩絵檜扇」は、広い川と紆曲し遥かに伸びてやや起伏する陸地が平遠の空間を構成し、水上と上空に水鳥が点在され、「汀渚水鳥」のモチーフが認められる。この三点の日本着色山水は、山の形、岩、樹木、人物などには日本化の傾向が窺われるものの、唐代山水画のモチーフや空間構成などの要素を残すと思われる。そして、これらの着色山水の山水表現はやや稚拙で、写実的で崇高な主山が描かれる大観山水に対し、小景と呼ぶに相応しい。先に挙げた敦煌莫高窟の盛唐壁画山水、及び唐代山水画風を伝える「長江積雪図」、「江行初雪図」、「江帆楼閣図」、「遊春図」では、平遠の空間構成と俯瞰視が共通している。加えて高い視点からの俯瞰視のため、高山が描かれても威圧感がなく、ゆったりとした視覚的効果をもたらしている。この点と王庭珪、周密の記載を併せて考えると、江湖景色を表現する唐代画風の山水画は、大観山水を見慣れていた宋人にとって小景画として認識されたであろうことが推測される。おわりに唐代の安史の乱と武宗期に行われた廃仏により、多くの壁画や障屏画は破壊され― 61 ―
元のページ ../index.html#72