注⑴蘇軾『東坡題跋』巻五「又跋漢傑画山」(津逮秘書本)⑵范寬、高克明、燕肅、李公麟、王詵、趙令穰の画風と王維、李思訓の関係については、次の文た。さらに唐末五代の争乱を経たことで、宋人の見ることのできた王維画と李思訓画の真筆はおそらく稀であった。五代の南唐と蜀は唐代絵画伝統を引き継いだ地であり、この二地で制作された絵画は、しばしば宋人によって王維画あるいは李思訓画とされた。即ち、宋人が見た王維と李思訓の絵画は、ほとんど真筆との間に断絶がある作品であった。宋人は当時の美意識を以て、これらの作品に新たなイメージを付与したのである。宗室の一員であった李思訓は、宮廷画風の着色画に結び付けられた。王維は詩人という身分、及び水墨で山水画を制作したことから、「清秀」の表現を持つ絵画に結び付けられた。「清秀」というのは即ち、李思訓画における華麗で鮮やかな着色に対置される、水墨を主として描かれる表現だと言える。そして、江湖景色の表現は、唐代山水画の一様式であり、平遠の空間構成と俯瞰視という特徴を有すると考えられる。長江流域に位置する南唐と蜀は、それぞれ地域の風景で唐代山水画、特に江湖景色の山水画を一層発展させていった。この二地で制作された南方風景の山水画は、宋人により王維画、李思訓画としてしばしば見なされたことを考えると、当時流布していた王維と李思訓の山水画には南方的な江湖景色が表現されていたと推定される。即ち、蘇軾が「頗以雲物間之、作浮雲杳靄与孤鴻落照、滅沒于江天之外」と述べる「唐人之典刑」は、こうした南方的な江湖景色のことを指すと考えられる。江湖景色を表現する唐代画風の山水画は、やや稚拙な山水表現と伸びやかな空間構成を持ち、ゆったりとした視覚的効果を表現したものであった。写実的で崇高な主山が描かれる大観山水を見慣れていた宋人にとって、こういった山水画は小景画として認識されたのであろうことが想定される。献を参照。米芾『画史』 范寬山水、 如恆岱、遠山多正面、折落有勢。(中略)。其作雪山、全師世所謂王摩詰。(景印文淵閣四庫全書本)周必大『文忠集』卷十八「題洪景盧所蔵王摩詰山水」 自崇寧興画学、名筆間出、有賜紫待詔高克明者、頗得摩詰用筆意。(景印文淵閣四庫全書本)『宣和画譜』巻十一 文臣燕肅、字穆之、(中略)。尤喜画山水寒林、与王維相上下、独不為設色。(津逮秘書本)李廌『徳隅斎画品』「長帯観音」 公麟登進士第、以文学有名于時、(中略)。雅好画、心通意微、真造玄妙、盖其天才軼挙皆過人也。士大夫以謂鞍馬愈於韓幹、佛像可近呉道玄、山水似李思訓、人物似韓滉、非過論也。(顧― 62 ―
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