鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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⑦アンリ・マティス「画家のノート」の理論形成研 究 者: 早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程川崎市市民ミュージアム 学芸員はじめに1908年末、アンリ・マティスは「グランド・ルヴュ」誌に自身の芸術的信条を述べた論文「画家のノート」を発表した(注1)。紙面上でマティスは自身が目指すべき芸術の姿を「疲れを癒す良い肘掛け椅子に匹敵するなにか」と表現し、この文言は以後画家を象徴する言葉として、今日まで幾度となく取り上げられるに至っている。しかしここで明らかにされたマティスの制作態度は、伝統的絵画の支持者のみならず先進的な論客であったモーリス・ドニら当時のアートシーンの批判をかわすために周到に内容がねられたものであった(注2)。その目的を強調するように、マティスは文中においても自身の思想が陳腐であると語っているのだが、では実際にマティスの芸術的理論はどのようにして形成されていったのであろうか。本研究は研究対象となって久しいマティスの「画家のノート」を改めて繙き、その理論形成の一端を担った人物として、パリで文筆家として活動したメシスラス・ゴルベールに焦点を当て、両者の関係性を探っていく。マティスとゴルベールの書簡の調査および著作の読解を行いながら、ゴルベールがマティスの芸術理論の形成に寄与した可能性を検討していくことを目的とする(注3)。1.メシスラス・ゴルベールとマティスメシスラス・ゴルベールは1868年にユダヤ系ポーランド人の両親のもとに生まれた。1891年に渡仏、1894年のドレフュス事件を経て社会主義活動に傾倒し、1896年にテロ行為の容疑により逮捕、収監される。その後フランス政府から政治活動に関与しないという条件のもと滞在が許され、1907年の結核による死までおよそ十年間、パリ周辺で生活を送った。釈放後のゴルベールは、主に詩の創作、文学批評、視覚芸術の批評といった芸術分野でキャリアを築いていった(注4)。ゴルベールとマティスとの出会いは、ゴルベールが渡仏して十年、マティスは修業時代から徐々に自身の表現様式の模索を始めた1901年に彫刻家アントワーヌ・ブールデルのアトリエにおいてである。このときゴルベールはブールデルのモデルを務めており、マティスはブールデルに彫刻の手ほどきを受けていた(注5)。─メシスラス・ゴルベールの芸術批評との関係性から─― 68 ―吉 川 貴 子

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