しかしながら両者は特筆すべき関係性を築かぬまま、六年ほど没交渉であった。その間ゴルベールは二期にわたって自身の名を冠した文芸雑誌Cahiers Mécislas Golberg(以下、「ゴルベール手帖」)を出版し(注6)、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの論考などを執筆するほか、1903年には若きギヨーム・アポリネール、アンドレ・サルモンらとともに文芸雑誌Le Festin dʼÉsope(「イソップの饗宴」)を刊行するなど、旺盛な執筆活動を行っていた(注7)。1907年春、ゴルベールは突然思い出したかのように当時手がけていた雑誌Polishと「ゴルベール手帖」においてマティスとその周辺の画家たちに関する論考の掲載を決意した。この時期マティスは《生きる喜び》〔図1〕や《ブルー・ヌード ビスクラの思い出》〔図2〕さらに《豪奢Ⅰ》〔図3〕を立て続けに発表し、フォーヴの旗手として伝統的主題と新たな表現手法の融合による様式の確立に勤しんでいた。ゴルベールのマティスへの注目は、こうした表現様式の模索と世間の厳しい風当たりに対する手厚い支援のつもりであったようだ。ゴルベールは論考の執筆者としてアポリネールを指名しており、サルモンを介してアポリネールに執筆依頼をしていたことが先行研究で明らかになっている(注8)。サルモンはしばらくアポリネールにこの依頼を取り付けなかったようであり、その後数ヶ月書簡は交わされていない。しかしゴルベールはアポリネールの返信を待つ間にマティスに六年ぶりに書簡上で交流を再開していた。Archives Matisseにおいて、ゴルベールがマティスに宛てた書簡が四通確認されたが、その交流は1907年の夏季から秋にかけて、ゴルベールが死を迎える直前の数ヶ月に限定されている。内容は全てマティスに関する記事掲載に関わる内容のものであり、最初にゴルベールが送ったとおぼしき日付不明の書簡は以下のような内容のものであった。九月号にあなたの美学を説明した二、三ページ―しかしあなたが望むのと同じぐらいの分量での紙面(の発表)を同意してもらえるでしょうか。あなたの美学はあなたと(オーソン・)フリエス、そしてあなたに追随する者の複製画によって擁護され、立証されるものであります。(注9)この打診の後、ゴルベールは同年8月16日にマティスに再度手紙を送っており、前回の書簡の返答として記事掲載を了承したことに礼を述べている。その数日後、8月20日にようやくゴルベールはアポリネールからの返信を手にし、アポリネールによって造形芸術に関する二編の論考の執筆の約束を取り付けた(注10)。その手紙と入れ― 69 ―
元のページ ../index.html#80