違うようにして、ゴルベールは同日アポリネールにマティスが9月1日まで不在であり、マティスがパリに戻り次第会いにいくよう要請した(注11)。しかし、9月末になってもマティスとの会見をしないアポリネールに対し、ゴルベールは徐々に不満を表すようになり、「マティスのプランはどうなっている?私のことを考えているのか?」と迫った後、すぐにゴルベールの療養先であるフォンテーヌブローのサナトリウムに来るよう求めている(注12)。その後、両者の関係はさらに悪化し、アポリネールに宛てられた最後の日付不明の手紙は、怒りと記事執筆の懇願に満ちたものであった(注13)。しかし、恐らくこの手紙に対してもアポリネールは反応を示さなかったのであろう、ゴルベールが送ったマティスの手紙にはアポリネールへの怒りが明確に記されている。我々のところではアポリネールには絶対に出版させることはできない。―あいつは雑誌の号をめちゃくちゃにした。(注14)一方、死を間近に控えたゴルベールをよそに、アポリネールは結局ゴルベールの記事差し止めの指示を無視して11月20日にマティスのインタビューを行った(注15)。そして遂に、アポリネールによるマティス論がゴルベールの死の直前1907年12月15日にLa Phalange誌に発表されたのである。アポリネールがなぜゴルベールを介さずにマティス論を発表したのかは不明である。恐らく死に行くゴルベールの仕事を引き継ぎながらも、マティスの支持者の中心的立場を手にしたかったのではなかろうか。いずれにせよアポリネールのマティスに関する記事は事実上画家自身によってその芸術観が語られた最初期のものとして重要であり、ゴルベールとアポリネールとの関係性が破綻に終わる結果にはなったものの、ゴルベールの仕事はアポリネールに引き継がれていったのである。2.マティスの芸術理論の発展以上のとおりゴルベールとマティスとの関係性において重要なのは、マティス論を執筆しようというゴルベールの構想が、1907年のアポリネールによるインタビューとしてまず実を結び、その後マティス自身の芸術論「画家のノート」(1908年)へと繋がっていったことにある。この二つのマティスの芸術論が、ゴルベールが生前に発表した芸術論と複数の共通性が認められる点は看過できない。以下ではゴルベールの芸― 70 ―
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