芸術宮殿での展覧会の独占に対抗するため、できるだけ多くの芸術家の支持を集める必要があったのである(注2)。結成時には44人の芸術家が参加し、その幹部はウツァルスキー、カウフマンである。1920年にはさらなる主要メンバーとして、ゲルト・ヴォルハイムとパンコック、1921年にはシュヴェーズィヒが参入した。またオットー・ディックス、ハインリヒ・カンペンドンク、マックス・エルンストなども参加している。さらに「若きラインラント」誕生の基盤に、下記のような重要人物ないし芸術運動の活動があった。1.1913年からデュッセルドルフに近代美術専門の画廊を構えた画商アルフレート・フレヒトハイムによる支援。2.化学者で写真家のエルヴィン・クヴェデンフェルトと前述のオイレンベルクが、1919年に「アクティヴィステンブント1919」を設立し、「若きラインラント」のメンバーとなる数名がこの展覧会活動にも参与していた。翌年にその活動は「若きラインラント」に吸収統合されてその役割を終えた。3.画商ヨハンナ・アイの周辺に集まった芸術家たちがやはり「若きラインラント」にも参与していた。ヴォルハイムが1920年にアイと知り合った後、同年芸術家グループ「ダス・アイ」をアイの画廊で結成し、また雑誌を刊行した(注3)〔図1〕。「若きラインラント」の主な活動は、展覧会の開催と1921-1922年の雑誌の刊行である。雑誌に関しては、ウツァルスキー、ヴォルハイム、カウフマン、シュヴェーズィヒが編集し、計10点が刊行された。展覧会については、1919年に第一回目の展覧会が開かれ、113人もの芸術家が出品したのを契機に、以後活発な展覧会活動が行われた。また論争好きな彼らは、芸術協会主催の1922年「デュッセルドルフ大芸術展1922」のボイコットを呼びかける運動を展開した(注4)。それによって彼らは、確固たる敵を作ることとなった。一方で彼らは同年に「第一回国際芸術展」、ならびに「第一回、進歩的で国際的な芸術家連合会議」を開催し、「ベルリン11月グループ」、「ダルムシュタット分離派」、「ドレスデン分離派グループ1919」、「デ・ステイル」などの近代芸術グループとの積極的な交流を図った。1923年になると、もともとさまざまな傾向の芸術家を抱えていた「若きラインラント」の間で不和が起こり、カウフマンやウツァルスキー等が「若きラインラント」から脱退して「ライングループ」を設立した。1928年には「若きラインラント」と「ライングループ」を再統合する上部組織「ライン分離派」が設立される。しかしナチス時代に突入し、「若きラインラント」は1932年11月、「ライングループ」は1933年3月を最後の展覧会として解散した。「ライン分離派」独自の展覧会は1933年10月で終わっ― 78 ―
元のページ ../index.html#89