たが、その後しばらくは存続し、1936年ナチス主催の展覧会「西部戦線1936」にその下部グループとして参加した。しかしそれも最終的に1938年、解散を余儀なくされた。これら解散の背景としては、近代美術のグループであったことはもちろん、これまでの活動の経過として、保守的な芸術協会を敵に回したこと、1921-1925年にフランス軍に占領されていたデュッセルドルフで、フランスの近代芸術を取り入れた国際展を行ったこと、またユダヤ人芸術家やフレヒトハイムのようなユダヤ人画商などが多くかかわったことから、人種差別的な考えをもつ人々から敵視されたことなどが挙げられる。さらにシュヴェーズィヒ等のように、共産主義に傾倒する、あるいは社会批判的な芸術の在り方を問う芸術家たちが名を連ねていたことなどから、彼らはナチス時代に厳しい立場に立たされることになるのである。「若きラインラント」はあらゆる近代芸術家の参加できるグループとして第一次世界大戦後に花々しく登場し、権威である伝統的な芸術協会と対立し、また外部の近代芸術運動と積極的にかかわる一方、内部では不和と分離、再統合と目まぐるしい変化を体験した。それによって1920年代デュッセルドルフ、ひいてはラインラントの近代芸術をリードしたのである。2.ナチス時代の「若きラインラント」の芸術家たち①ナチスの芸術政策とデュッセルドルフの芸術をめぐる状況ナチスは政治だけではなく芸術の領域にも積極的に干渉した。美術は人間や社会を映し出す鏡として、大衆の目を覚まさせようとする批判的な力をもっている。ナチスはこのような力を恐れたからこそ、自らを批判する芸術家を弾圧し、一方で美術を政治の道具とした。またナチスは、権力意志の表現としてふさわしい、永遠の価値を持つ形態を志向して、古代ギリシアを美の規範とするアカデミックな具象表現に価値を置いた。そしてナチスの思想を宣伝する作品、あるいは逆にメッセージ性のない陳腐な田園風景画・風俗画・静物画を奨励し、それはナチスの支持基盤である小市民階級の趣味と合致していた。一方でナチスはモダニズムを断罪したが、それは第一に近代美術の作家が「自由」を前提とした活動を行ったからである。また第二に、「若きラインラント」、ダダなどに見られるように、1920年代の近代美術運動には、第一次大戦で過酷な兵役を経験した結果、それまでの帝国主義的な価値観を嫌い、共産主義に共鳴する芸術家が数多く参加したことが挙げられる(注5)。ナチスが共産党や社会民主党を敵視したのは、ヴァイマル共和国時代に労働者の多くがそれらの政党を支持しており、もともとナチスを支持した中産階級だけでなく、ドイツ全土を掌握するに― 79 ―
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