は労働者階級が支持するそれらの政党をつぶさなければならなかったからである(注6)。またそれだけではなく、過去の美術を否定して次々と更新される近代美術は、ナチスの考える「永遠の価値」を欠いている、ということになったのである。ナチスは1933年の時点から早速近代美術にかかわる作家とそれを支持する美術史家や美術館学芸員などの弾圧を始めた。芸術アカデミー、大学、美術館などから彼らを締め出し、美術館からそれらの作品を押収した。そして自らに従わせるべく全ての芸術家に帝国造形芸術院に入会することを義務付けた。それはすなわち求めれば誰でも会員になれるということをも意味する。そのためディレッタンティズム、芸術の商業化、大衆化が促進され、それが陳腐だという批判が党内でも出るものの、国民の幅広い層をナチスの考える「芸術」に関与させることに成功した(注7)。デュッセルドルフにおけるナチスの芸術政策を振り返ると、まずデュッセルドルフ芸術アカデミーでは、1924年に学長に就任した美術史家ヴァルター・ケースバッハに招聘されて、1931年からパウル・クレー、カンペンドンク、1932年からエーヴァルト・マタレ、オスカー・モルといった近代美術の作家たちが教授を務めたが、1933年にはケースバッハを含めたこれらの作家たちは実質上の解雇に追いやられた(注8)。その代わりに建築家ペーター・グルントを学長として、ヴェルナー・パイナーなどナチスに迎合する芸術家が教授に起用された。また作家や展覧会関係者をナチスの組織に組み込んでいくため、1934年にデュッセルドルフ造形芸術振興協会が美術展覧会制度を改組し、ナチスに迎合する作家や中立的な立場の作家まで含めた支援活動を行った(注9)。デュッセルドルフで同時代の美術を展示する政策は、1934年に市立博物館の館長に就任した美術史家ハンス・フップ等を中心に動き始めるが、やがて中央の政策の強い介入を受けるに至る(注10)。特にデュッセルドルフでは、1937年ナチスの大規模な博覧会「創造する国民」やそこで開催された「デュッセルドルフ大芸術展1937」、1938年「退廃芸術展」のような大規模展覧会をきっかけに、美術の領域における取り締まりや近代美術の弾圧が一層厳しくなっていった。ナチスは1937年ミュンヘンで、彼らが是認した作品の展覧会「大ドイツ芸術展」と、押収した近代美術作品を嘲笑するために開いた展覧会「退廃芸術展」とをほぼ同時開催したことから、美術に対する規制をより徹底していった。デュッセルドルフの状況は、まさにこの一連の動きに位置づけられるのである。②「若きラインラント」メンバーの芸術活動ナチスは前述のとおり確かに近代美術を断罪する政策を、段階を追って遂行して― 80 ―
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