鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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いった。だがその一方で、例えば「若きラインラント」のマティアス・バルツのように、芸術家としての職業禁止令を科されたのに、「デュッセルドルフ大芸術展」に作品を出品できた作家が存在したことも事実である(注11)。このようなことから、ナチスの近代美術家に対する攻撃の度合いに非常に明確な基準があったわけではないということも言いうるが、むしろ近代芸術家たちがこの時代の犠牲者となったというだけで問題を単純化すべきではないということが導き出される。つまり、ナチスの美術政策を前にして作家がそれをどのようにとらえたのかという、作家の側の問題に視点を向けることが重要であると考える。実際に、芸術家がナチスの美術統制を前にして、亡命するのか、国内にとどまって(その場合は金銭的な理由から亡命できないということも含まれるが)抵抗するのか、不服でも順応するのか、沈黙するのか、進んで迎合して利益を得るのかの選択によっても状況が変わったのである。そのため、ここでは「若きラインラント」に参加した三人の芸術家たちが、ナチス時代にまさにどのような選択をして芸術活動を行ったのかを検証したい。「若きラインラント」のメンバーではカウフマン、ヴォルハイム、カンペンドンク、エルンストなどさまざまな芸術家が亡命した。それに対して国内にとどまった者のうち、進んで迎合した作家として特に有名なのは、アルノ・ブレーカーである。彼は、ナチスが追求する近代国家を担うにふさわしい肉体をもった「新しい人間類型」の像として、若く筋骨たくましい巨大な男性彫刻を次々に制作したことで知られる(注12)。また順応した作家にはそのように進んで利益を得た者だけではなく、迎合と抵抗の間は実に多様であり、生き延びるためにやむを得ずその選択をする者も多数存在した。「デュッセルドルフ大芸術展」には、「若きラインラント」のメンバーでは、例えば前述のバルツ、ヴィル・キュッパー、カール・バルト、ラウターバッハ等が作品を出品している。ラウターバッハは1937年の同展覧会に《雨降る通り》を出品した。デュッセルドルフ市立博物館の所蔵する、その下絵としての線描画《雨降る通り》(1936年)〔図2〕を執筆者が調査したところ、その線描画裏面におそらくはラウターバッハ自身による次の記述が確認された〔図3〕:ʻEntwurf zu dem in der Ausstellung “Schaffendes Volk – Düsseldorf 1937” verbotenen und entfernten Bildʼ「展覧会「創造する国民─デュッセルドルフ1937」で(出品することを)禁じられ排除された絵の下絵」。ヴィーラント・ケーニヒは《雨降る通り》がすでに1936年エッセンの展覧会「西部戦線1936」で展示された際、同年6月29日のナチスの新聞『フォルクスパローレ』でこの作品が攻撃され、また1937年の「大芸術展」を訪れたヒトラーがこの絵を不快に思― 81 ―

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