い、撤去させたこと、その代わりにユングハンス教授の勧めで、自然主義的でアカデミックな習作を出品したことを指摘している(注13)。ちなみに「デュッセルドルフ大芸術展1937」のカタログには、同作品の挿図が掲載されている(S. 51)。このような屈辱的な思いをしつつもラウターバッハは、ナチス主催の展覧会にたびたび作品を出品していた。その一方で、画家本人が作品に記した制作年によれば、密かにナチスを批判するような作品も描いていた。展覧会といえばもはやナチス公認の展覧会しかこの時代には開かれておらず、画家として生計を立てようとするならこうした展覧会に参加せざるをえなかったのも事実である。明確な抵抗をすれば、芸術家としての活動を禁止されるどころか、生命の危機に直面することになったのである。ところがラウターバッハは、戦後ナチスの「被害者」として補償金を申請し、公にナチスに抵抗した者として自らを演出したことが近年発覚した(注14)。このような自身と社会への欺瞞を画家が死ぬまで続けた事実を踏まえ、その作品や資料をどのように取り扱うべきかが現在なお問われている。このようにやむを得ず迎合した、あるいは沈黙した芸術家が多かった一方で、明確な抵抗を試みた芸術家もいた。その場合、自らの良心に従ってそれを敢行した芸術家と、ドイツ共産党(KPD)に関係していたことから抵抗した芸術家がいる。まず前者の例としては、パンコックを取り上げる。彼はナチスの人種差別政策に抗して、その対象となったジンティ(Sinti:ドイツ語圏に住むジプシーの自称「ジントSinto」の複数形)をモデルに、1933年から1934年にかけて《受難》のシリーズを制作した。これらはすべて暗鬱な雰囲気を醸し出す白黒の木炭画からなり、イエス・キリストの生涯がたどられている。そこでは、神としてよりも、むしろ人として地上で苦しみに満ちた道のりを歩んだ姿が、非情な社会における「一人の清らかな人間」としての姿が強調されている(注15)。そのためイエスの復活以後の物語は描かれず、シリーズは埋葬の場面で締めくくられている。パンコックはエッセンでの1933年の展覧会「西部戦線1933」に、《受難》シリーズから5点の作品、すなわち《エルサレム入場》、《ゲツセマネ》、《鞭打ち》〔図4〕、《十字架降下》、《亡骸を抱くマリア》〔図5〕を選び、発表しようとした。しかし展覧会開催前のナチスによる検閲で、それらを諦めて「無難な風景画」を出品することを勧められたが、パンコックはそれを拒んだため、作品の展示資格を奪われた(注16)。しかし1934年に《受難》シリーズの最初の部分がミュルハイム美術館で展示され、同年シリーズが完成して後の1935年に、同美術館で全作品の展示が計画されたものの、その展覧会は早々にナチスによって打ち切られた。また1936年にベルリンのグスタ― 82 ―
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