フ・キーペンホイアー出版社から刊行を試みた作品集『受難』(注17)は、翌年ナチスに押収され、出版を禁止された。その一連のことから、パンコックはナチスによって芸術活動の禁止を命じられることになる。デュッセルドルフの北郊外ハイネフェルトは、第一次大戦後にフランス軍が駐留していた射撃練習場跡地で、1920年代半ば以降そこにジンティが住み始め、およそ25家族ほどの村を形成した。パンコックは彼らに強い興味を持ち友人となって、1931年からそこにアトリエを構え、ジンティの肖像画を多く描いた。彼らは1933年の初めからナチスによって公民権を剥奪された。翌年以降、ハイネフェルトに住む200人のジンティが住いを追われて1937年にヘーアーヴェークの収容施設に集められ強制労働を課された後、最終的にポーランドの強制ないし絶滅収容所へ送られた(注18)。パンコックはヘーアーヴェークの収容所への立ち入りをたびたび試みたがかなわず、戦後初めてただ二人の生存者と再会することができた。《受難》シリーズ中の《わが神わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?》〔図6〕をはじめ、力強いパンコックの作品からは、死に直面した人間の生命の最期の強烈な輝きが見られる(注19)。またイエスの拷問、処刑とジンティ等に対するナチスの迫害を重ね合わせ、この悲劇が断行される現実から、ドイツ国民に目をそらさせまいとする強い意志が読み取れる。戦後、パンコックはデュッセルドルフ芸術アカデミーの教授に就任する。そして生き残ったジンティを描きだし、また1947年にジンティの肖像画集『ツィゴイナー』を出版した(注20)。その序文でパンコックは、ジンティの大量虐殺を訴えるとともに、彼らと過ごした思い出を生き生きと綴っている。こうした芸術活動に加え、ユダヤ人と違い、補償を受けられず二重の差別を受けていたジンティを、パンコックは最後まで見捨てずに支援し続けることになる。― 83 ―KPDに所属していたことから逮捕され、収容所へ送られた「若きラインラント」の芸術家として、シュヴェーズィヒ、ユーロ・レヴィン、ペーター・ルートヴィヒス等がいる。レヴィンとルートヴィヒスは収容所で亡くなるが、シュヴェーズィヒは生き残った。彼は党員として1933年にフライヤーの製造と配布にかかわり、KPDの会議に自らのアトリエを提供したことから、同年に逮捕され、デュッセルドルフの「シュレーゲル地下牢」で拷問を受けた(注21)。解放後、ラウターバッハやレヴィンの助けでベルギーに渡り(注22)、人々がいまだ気づいていないナチスの恐怖政治の実態を知らしめるべく、《シュレーゲル地下牢》〔図7、8〕のシリーズ(1935-1936年)等、自ら経験した拷問の様子など収容所での出来事を戯画的な具象絵画で表現し、展示活動を行った。シュレーゲル地下牢でシュヴェーズィヒは、突撃隊(SA)の指揮官か
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