鹿島美術研究 年報第33号別冊(2016)
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ら、背中にハーケンクロイツの傷をつけられて拷問された囚人の背中を見せつけられ、「後で残酷物語を描けるように」よく見ろと命じられた(〔図7〕にはその状況が描かれている)。このことが、彼が自由を勝ち取るまであらゆる不幸や困難を生き延びる動機となったと、シュヴェーズィヒは「シュレーゲル地下牢報告書」で記している(注23)。そして彼は、1940年ドイツのベルギー侵攻を機に再び捉えられ、敗戦まで収容所を転々とする憂き目にあう。その間、命の危険にさらされながらもむしろ制作熱は途絶えず、世間にナチスの罪を糾弾してドイツの人々の目を覚まさせるための作品を描き続けた。しかし戦後も彼の作品は顧みられることなく、その再評価と資料の発掘は1980年代に始まるのである(注24)。3.「若きラインラント」の戦後受容それぞれ苛酷な状況下でナチス時代を生き延びた「若きラインラント」の芸術家たちは、敗戦後、1946年に「ライン分離派」、1949年に「新ライン分離派」が設立されたとはいえ、東西ドイツの政治事情によって奨励されたそれぞれの新しい芸術、すなわち西の抽象表現主義と東の社会主義リアリズムの興隆を前に、1920年代の時ほどの輝きを見せる機会を失った。例えば、いつまでもナチスのことを忘れさせまいとするシュヴェーズィヒ等によるような、政治的メッセージをもった具象絵画は受け入れられず、デュッセルドルフでも新たに若い画家たちの間で大流行した抽象表現主義が過去の忘却装置として機能した(注25)。「若きラインラント」が発掘される第一の機会は、1970年にデュッセルドルフのクンストハレで行われた展覧会「近い過去のアヴァンギャルド 若きラインラントとその後援者たち1919-1929」である(注26)。そのカタログには、「若きラインラント」の活動を振り返るカウフマンの新しい論文が掲載された。その後、「若きラインラント」がもはや一つの歴史となった1980年代に再び大きく取り上げられることになる。まさに戦後40年の1985年に再度クンストハレで大規模な展覧会「はじめに:若きラインラント」、同年、1980年デュッセルドルフに開業して以来、「若きラインラント」メンバーの展覧会の開催、作品や資料の蒐集に努めてきたギャラリー・レマート・アンド・バルトや、デュッセルドルフ大学図書館で各展覧会が開かれる。また1988年にデュッセルドルフ市立博物館で展覧会「若きラインラント─ある平和思想」が行われた(注27)。この80年代においては、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー連邦大統領が戦後40年、1985年5月8日に連邦議会で行った演説「荒れ野の40年」や、1987年西ドイツで起こった「歴史家論争」、美術の領域では― 84 ―

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