た聖霊は、「既に完全な人の姿をしていたが、小さくて子どものようだった」と述べられていたことによると考えられている(注19)。しかし、受胎告知の幼子イエス図像が成立した経緯については未だ明確になっているとは言いがたい。その萌芽とも呼べるような12世紀に制作された象牙浮き彫りには、告知天使と聖母の間に小舟に乗った子どもが確認できる〔図6〕。受胎告知図の詳細な研究を行ったロブは、この人物にはニンブスがないこと、マリアの方へ向かっていないことから、これは単なる装飾に過ぎず幼子イエスとは無関係であるとした(注20)が、聖霊の真下に位置しガブリエルの指に触れているこのモチーフが、全く象徴的な意味を持たないとは考えにくい。実際に裸体の幼子が受胎告知に描かれるようになったのは、13世紀のことである。『ビーブル・モラリゼ(Bible moralisée)』では、天使が幼子を聖母の目前に捧げたり、引き渡したりする様子がみられるため、ハイマンは受胎告知の幼子の起源を『ビーブル・モラリゼ』であると考えている(注21)。ロブは、ボドリアン図書館の作例に、幼子の他に鳩の姿をした聖霊が聖母の耳元に描かれていることをあげ、聖霊は受胎告知、幼子は受肉を示すとし、『ビーブル・モラリゼ』図像とのつながりをも疑問視するのだが、後の時代の受胎告知図でも幼子と聖霊を同時に描くことは多く、ボドリアン写本挿画の幼子と受胎告知の関係性を否定するものではない。そもそも受胎告知という出来事そのものが受肉の瞬間を示すものであるため、このような先行作例は、聖母の元に飛翔する幼子イエス図像の成立過程で重要な役割を果たしているといえるだろう。ロブが受胎告知における幼子イエスの最初の作例であると主張する、パチーノ・ダ・ボナグイダの《生命の木》(1310年頃、フィレンツェ、アカデミア美術館)では、玉座の神の胸元のメダイヨンに幼子がおり、そこから発せられる光線がマリアへと向かう。中央の浮遊する裸体の幼子とは別に、光線の到達するマリアの喉元にもうひとり幼子が描かれている〔図7〕。これはボナヴェントゥーラの『生命の木(Lignum vitae)』によるものであり、メダイヨンは聖霊を、裸の子どもは霊としてのキリストを、首元の幼子は人間としてのキリストを示すという(注22)。しかしルネサンス期のイタリアでは、幼子イエスを伴った受胎告知図は、南チロルをのぞけばほとんどみられず、フィレンツェやローマで活動した名のある画家たちの作例は確認されておらず(注23)、受胎告知を繰り返し描いたフラ・アンジェリコにも、幼子を描いたものは存在しない。フィレンツェ・ルネサンスの芸術家たちがこのような図像を避けたのは、同時代のフィレンツェ大司教であった聖アントニウスが、「聖母の子宮に入っていくような幼子の姿を描くべきではない」と批判したことが影響しているのかもしれ― 91 ―― 91 ―
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