に保存されている。1896年から1897年、1899年から1906年の手帳の所在は不明である。よって、『覚え書』はオルタに関する研究で重要な資料と考えられている。『覚え書』には、建設工事や室内装飾、家具制作などに関する日付が記されている。ただし、記録は非常に簡潔で、多くの情報が不足しているため、他の資料で補う必要がある。3.家具の制作動機と時代背景住宅ごとに異なる室内装飾を制作するために、オルタは厖大な時間を費やしたという(注5)。そもそも、彼はなぜそこまで多くの時間を割いて、家具を自分で設計する必要があったのだろうか。それを知る手掛かりとして、まずは当時、ヨーロッパやベルギーで室内装飾品がどのように制作されていたのかを確認しておこう(注6)。19世紀前半にはすでに、伝統的な職人の手仕事から生み出される室内装飾品は高級品だけで、世の中には機械による安価な大量生産品が出回っていた。しかしメーカーは、機械生産に合ったデザインを生み出すまでには至っておらず、伝統的な製品の複雑なデザインをそのまま用いた。このため、欠陥品、見た目も出来も悪い模倣品が作られていた。展示会場の水晶宮でよく知られる1851年に開催されたロンドン万国博覧会では、産業製品が多く展示され、室内装飾品の質について考えるきっかけとなり、デザイン改革運動がヨーロッパ中で起こった。1852年にロンドンに設立されたヨーロッパ初の装飾芸術と産業の博物館サウス・ケンジントン博物館(現ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)をはじめとして、1860年代にはヨーロッパ中で同じタイプの博物館が開館された。ベルギーでも、イギリスやフランスに遅れをとりつつも、1870年代から1880年代に、装飾芸術の展覧会が開催され、1889年には博物館が設立された。オルタもこうした流れに関心を持ち、住宅の室内に、イギリスのデザイン改革運動の中心であったウィリアム・モリスやリバティーの壁紙や生地を使用している。さらに、「師匠」(注7)と仰いだフランスの建築家ヴィオレ=ル=デュクからより強い影響を受けたことがオルタの『回想録』で明らかにされている。「室内装飾の分野は商業的なものになってしまった。家を設計する建築家が室内装飾も手がけるという伝統はほぼ廃れてしまっており(…)、ヴィオレ=ル=デュクの『フランス室内装飾の辞典』がその伝統を思い出させてくれた。」(注8)― 102 ―― 102 ―
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