鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
12/507

覚文化の可能性を述べる。近世日本における一人の町絵師による具体的な梵土表現を分析し、実際のインド仏教と乖離していた異国表現の豊かさ、あるいは限界について考察する。尚、[ ]を付与した事例は先行研究において指摘されている事例であり、[ ]内は提唱者の苗字である(注2)。A.特に大衆の信仰を集めていたと思われる視覚文化(仏画を含む)は増上寺本21~24幅の他、5点を例に挙げる。増上寺本第4幅〈名相〉では、筆を執る羅漢が描かれるが、東京・東禅寺蔵「羅漢図」3幅のうち、同様に筆を執る羅漢に酷似している。一信が「羅漢の圖あることを聞けば遠きをも辭いとはず、必らず自ら往きて之を尋ね、およそ名山大刹の藏幅展観して盡さゞるものなかりき(注3)」ことを証明する好例である。増上寺本第25、26幅〈六道 餓鬼〉における羅漢が下部の餓鬼に施与を行う描写からは当時の寺院等で行われた節分会の様子が想像される。第28幅〈六道 鬼趣〉に描かれた鬼子母神を見た当時の人々は、すぐさま入谷や雑司ヶ谷等にあった養育の神としての鬼子母神を想起したであろう。第52幅〈神通〉の後景には、一人の羅漢が顔の皮を剝いで不動尊を現している。伝統的な五百羅漢において著名な宝誌和尚の姿を借りて、不動尊を表したことが明らかであるが、この不動尊羅漢を背景として、前景には神通力で地面や水瓶から水を出し、池を作ろうとする複数の羅漢が第51、52幅の2幅にわたり描かれている。江戸の人々は、独鈷の滝を中心として発達した目黒不動を想起したであろう。目黒不動の縁起によれば目黒不動は慈覚大師が開いたことが知られており、目黒の里で不動尊を夢に見た大師が独鈷杵で土を掘ると水が溢れ出たとされている。不動尊の神仏としての性格は水であり、滝の水は古く戦国時代より農耕に用いられ、また、水垢離の聖地となる等、人々の生活に欠かせない存在であった。また、第51幅の後景、不動尊羅漢と対置する位置には、即身仏になった羅漢が描かれている。これも目黒不動において木喰行者が眠るごとく往生を遂げたという『増補江戸咄』等の説話が参考にされていると思われる(注4)。他に禅月羅漢、胸中釈迦等も参照されている。B.仏画以外に典拠となった視覚資料は、参考として挙げるものを含めて9点ある。既に筆者が指摘した、増上寺本第18幅〈剃度〉の裙をつけた沙弥と中西誠応筆『画像須知』。第33、34幅〈六道 人〉は、従来、秋田蘭画との関係が指摘されているが、中世日本において著名であった中国画家・孫君澤の山水画との関連も考慮に入れたい。前景に張り出した樹木と後景の遠近法が注目されるが、樹木の大きさは秋田蘭画に描― 2 ―― 2 ―

元のページ  ../index.html#12

このブックを見る