その他の東巡碑(437)、大代華岳廟碑(439)の原石ははやく亡逸し、現在は拓本が伝わるのみである。これらの6碑は、碑文の内容から、廟碑(中嶽崇高霊廟碑・大代華岳廟碑)、寺碑(暉福寺碑)、墓碑(司馬芳残碑)、巡行碑(東巡之碑・南巡碑)と分けられる。とりわけ注目すべきは2基の巡行碑である。これらは巡行地で皇帝を称えるために立てられた碑であり、皇帝や国家的事業に関わる中央作として当時の水準を示す作例と位置づけられる。〈東巡碑・南巡碑の来歴や立地、碑文の内容〉東巡碑は河北省易県にあったと伝えられるが1930年代以降に所在がわからなくなり、現在は拓本のみが伝わる(注3)。拓本の寸法は縦184cm、横79cm。趺の存在は拓本のみからは判断できない。碑文には、北魏の太延元年(435)に第3代皇帝である太武帝(在位423~452)が定州、相州、冀州を巡行したことが記される。文中でクローズアップされているのは、都平城への帰途に五廻嶺(河北省易県、太行山脈に位置)の切り立った崖の前を一行が通り過ぎた際の事跡である。峻険な景観に感じ入った皇帝は従臣の者達と共に弓比べをした。皇帝の放った矢は誰よりも遠くまで飛び、遥かに崖を越えて行ったという。碑文はこれを「来世に垂れん」ために地元定州の長官が立碑を企図した旨が記されている。なお、書者については、碑文に言及されずわからない。東巡碑から20年余り後、第4代皇帝である文成帝(在位452~465)もまた巡行先において競射を行い、その地に巡行碑が立てられた。南巡碑は、1987年の霊丘県文管所の調査により山西省霊丘県県城東南の峡谷の台地上において発見された(注4)。発見時、碑石は碑首と碑身に大きく断裂しており、碑石そばの土中には亀趺が埋まっていたという。靳生禾氏らの論文ではこの台地が御射台(皇帝が射を行った場所)に当たることや、新たに発見された7片の碑石に残る文字の録文が発表されている。南巡碑の発見場所を筆者が訪れたところ、台地の下を迂回するように河が流れ、台地南側には山が聳え、絶壁が迫っていた。現在、碑は発見場所からほど近い河北省平山県覚山寺の碑亭内に移されている。表面はかなり破損し、判読可能な文字は170文字余りしかない。文意が取りにくい箇所も多いが、碑文中には「和平2年」「皇帝南巡」の文言があり、和平2年(461)の巡行が記されていることがわかる。碑文後半は欠損しているが、文中の所々に「射」の文字が見られ、競射について記されていたことを推察させる。この和平2年の競射の様子は幸い『魏書』巻5、文成帝本紀の和平2年の条に詳細な記事が残る。『魏書』によれば、山西諸州への巡行を終え平城への帰り道、霊丘の高く聳える山峯を一行は通ったという。その山をめがけて群臣たちが矢を― 113 ―― 113 ―
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