鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
124/507

放ったが山を越えるものはいなかった。ただ皇帝の矢のみが山を越え、それを記念してその地に碑を立てたという。南巡碑の立碑企画者、撰文者や書丹者については、碑文にも『魏書』にも言及がなく不明である。以上、二碑の来歴や立地、碑文内容を確認した。両者とも巡行先の峻険な山中において皇帝と従臣の者たちの競射が行われ、皇帝が卓越した遠射技倆を発揮したことが記されている。皇帝の武芸によって、天下の安寧が保たれていることを称えることが二碑の共通した趣旨となっている。〈書様式の検討〉では、これらの碑文はどのような書で刻まれていたのであろうか。平城時代を代表する書としてよく知られるのが中嶽崇高霊廟碑〔図4〕や大代華岳廟碑である。東巡碑〔図3〕の類例としてよく挙げられるのもまたこの二碑である。先学により、東巡碑、中嶽崇高霊廟碑、大代華岳廟碑が一系の書様式であり、当時の典型的な石刻書様式であったと指摘されている。さらに、それは東晋の謝琰及妻王氏墓誌(396)や、南朝宋の爨龍顔碑(458)〔図5〕とも共通する書様式であり、4世紀末ごろから5世紀中葉にかけての書流の中には南北共通の伝流があったと位置づけられている(注5)。以下、東巡碑の書の特徴を何点かあげてみよう。字の概形はやや縦長か正方形におさめる。横画は水平かわずかに右上がりをつけ、時に起筆と収筆を上に尖らせるものもあるが、方形になっているものが多い。漢碑の隷書にみられるような波勢はなく線は直線的である。右払いは右上方に大きくはねあげ、はねは楷書的に小さく進行方向へ抜いている。こうした特徴は西林氏が指摘する通り同時代の南朝の刻石にも確認でき、東巡碑は当時の南北の書の共通性を示す好個の作例と位置付けられよう。一方、南巡碑〔図6〕はどのように書かれているだろうか。劉鎖祥氏は、南巡碑は中嶽崇高霊廟碑や爨龍顔碑とはまた異なる特徴を持つことを指摘し、南巡碑はより厳謹であり、端厚、開張、粛穆と評している。さらに、南巡碑が龍門造像記など後の洛陽石刻に大きな影響を与えたであろうという(注6)。確かに、少し降る作例の封和突墓誌(504)や、元淑墓誌(508)なども南巡碑によく似ており、新しい石刻書様式として受け継がれていったことが想定される。一方、殷憲氏は南巡碑の特徴として、全体として力強く雄大な印象を与えること、横画の右上がりが強いことなどを指摘している(注7)。殷氏の指摘するように一見して目につくのは、東巡碑より横画の右上がりが強くなっている点である。文字の概形はやや縦長で、東巡碑と同様に、横画の起筆は上に角を出すように入り、収筆部分も右上にはねあげるようにして抜く。縦画の起筆の打ち込みも鋭角に入り、収筆はやや太くして方形にして止める。右肩上が― 114 ―― 114 ―

元のページ  ../index.html#124

このブックを見る