鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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りの間架結構は、同時期では司馬芳残碑によく似る。なお、南巡碑に特徴的に見られる左払いや右払いを進行方向に自然に細くして抜く点は、楷書的用筆の混ざり具合が多くなっていることを示していよう。注意すべきは南巡碑には所々に行書的な用筆の特徴も見られる点である。すなわち、東巡碑に比べ、南巡碑には当時の通行書(肉筆書)である楷書や行書の用筆が取り入れられている点が大きな特徴といえる。同時代の肉筆資料である司馬金龍墓木板漆書(484)に見られる画と画の連綿線を、石刻書である南巡碑にも見いだすことができる。同時期の南朝の作例が乏しいため南北の比較は難しいが、例えば南斉の劉岱墓誌(487)は、字形を全体的に右上がりに作ることや、はらい、はねなどを自然に抜き去る点が南巡碑と共通する。南巡碑の横画に見られる起筆や収筆部分で上方に鋭く角をだす点を弱め、曲線をより多用すれば劉岱墓誌の書様式に近似していくであろう。殷氏は南巡碑を「進取の気が溢れる時代精神を体現した書」と評する。わずか東巡碑と20年の時間差ではあるが、南巡碑には後の龍門造像記の先駆けとなるような新しい書様式を看取できる。〈造形意匠〉・螭首と趺 東巡碑の原石は現在実見できないため、碑側や碑陰部分についての詳細は不明である。螭首が作られていたか否かも拓本のみからでは判断できない。また、趺については、近年その断片と思しき石塊の発見が報告されているものの、掲載された写真のみではその詳細な形状までは判然とせず、今後の紹介が待たれる。一方、南巡碑はかなり精巧な螭首〔図7〕と亀趺が現在も残っている。螭首は双頭の龍が碑石に頭を向け、胴体は碑首に沿って半円状を呈す。手足は作らずシンプルな形であるが胴体の表面には細かい鱗紋が線刻され手の込んだ意匠となっている。龍の角や耳、目、口や歯などが立体的に彫り出され、洗練されたデザインとしてまとまっている。平城時代の作例である司馬芳残碑の螭首の平面的な造形と比べるとその作行きの良さは際立つ。なお、龍の顔部分の造作は、西晋時代の皇帝三臨辟雍碑(278)や管洛墓誌(290)を彷彿とさせる。また、亀趺を見ると、甲部分はやや平板であるが、顔や手足は細部まで精巧に作り込まれている。南巡碑は漢碑以来の螭首、碑身、亀趺という伝統的な石碑の意匠を襲ったものであり、石彫物としても高いレベルを示すものである。・篆額 次に両碑の篆額に注目してみたい。両碑とも一文字一文字が浅く彫りくぼめられた正方形のマスにおさめられ、文字は陽刻されている。同様の篆額意匠は、平城時代の作例である中嶽崇高霊廟碑や、司馬金龍墓表、暉福寺碑〔図8〕に確認でき、さらに洛陽遷都後の高慶碑(508)、高貞碑(523)など後の石碑にも継承されている。― 115 ―― 115 ―

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