管見の限りでは、正方形のマスに陽刻で文字を配す例は魏晋時代に見られず同時期の南朝にも見ることはできない。かなり時代は遡るが河北省元氏県に残る白石神君碑(183)〔図9〕の篆額は東巡碑と同様の意匠である。白石神君碑もまた東巡碑と同じく河北省に立てられており、このような篆額はこの地に伝わる意匠であったのかもしれない。東巡碑や南巡碑、または暉福寺碑の題額には、収筆部分を湾曲させ尖らせる装飾的な篆書が用いられている。特に、南巡碑と暉福寺碑の篆書はよく類似しており、両者が依拠した字書などの存在を思わせる。北魏時代、篆書を書く際に何に基づいたのかは興味深い点であるが、現段階では特定できていない。・東巡碑碑首の人物像 碑首の意匠として、最も目を引くのが東巡碑の篆額両脇に配された人物像〔図10〕である。このスペースは南巡碑のように一般的には図像を表さない場所である。先行研究においてこの図像はほとんど言及されてこなかったが、殷氏はこの人物を「鮮卑族の武人」と捉え、碑の一般的な形制から逸脱するものと指摘している(注8)。確かに人物の衣服は漢民族とは異なり、鮮卑族が着る胡服の特徴を備えているようにも見える。不鮮明な拓本のみから即断するのは躊躇われるが、これらの人物像は羽人とも解釈できるのではないだろうか。羽人とは不死の存在であり、仙界の住人である。羽人は早く前漢時代より造形化されてきた。天上世界を飛翔する特徴を示すように肩や腰に羽衣や羽毛がつけられ、ふくらはぎを露出し、裸足で表現されることが多い。漢代画像石の羽人図像〔図11〕と東巡碑の人物図像を比べると、下半身に垂れるひれはたなびく羽衣の表現であり、やや細目のふくらはぎは露出した裸足の姿を表した図とみることができよう。上半身左右から半円状に張り出す翼のような部分を羽と見れば羽人の図像的特徴によく合致する。漢碑以来、石碑は「天円地方」の概念を造形化したものと指摘されてきた。天を表す碑首部分は円形にかたどり、碑の下方は地を象徴する方形や亀の台座が配されている。本来碑首部分が「天」を表す部分であることを踏まえれば、そこに天上世界の住人である羽人が配されるのはあながち矛盾しない。しかしながら、碑首に羽人を配する作例が他に見当たらないこともあり、本図像の比定については今後も考究を続けたい。おわりに本稿では平城時代の石刻資料を代表する作例として、東巡碑、南巡碑を主に取り上げ検討した。従来、北魏書法は洛陽遷都後の漢化政策に伴い南朝書法が浸透し、その流れで洗練された新しい書様式である龍門造像記の一群が出現してくる、と概説されることが多かった。しかし、先述したように、東巡碑は同時代の南朝と共通する当時― 116 ―― 116 ―
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