鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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注⑴ 毛遠明校註『漢魏六朝碑刻校注』(線装書局、2008年)⑵ 殷憲氏は平城時代の遺物に関する多くの論考を残したが、本稿では特に「大同魏碑述略」(『書法叢刊』1999年-1)、「代の古代書法と衛氏」「平城期銘刻書跡考釈」(『金石書学』第11号、藝文書院、2006年)、「北魏平城書法総述」(『中国書法』 2014年-7)、殷憲・殷亦玄『北魏平城書迹研究』(商務印書館、2016年)などを参照した。の典型的な石刻書様式が用いられており、南巡碑はより先進的な書が採用されていることを確認した。すなわち、洛陽遷都以前より南朝の書様式は北朝において受容されていたことになる。さらに、南巡碑の書は、南朝の新しい書様式がタイムラグなくして伝播していたことを示唆していよう。また、碑の造形意匠について、東巡碑は碑首の人物図像を羽人と解釈し伝統的な石碑の造形から大きく外れるものではないと指摘した。趺の有無については不明であるが、後代にも継承されていく篆額を備えた堂々たる碑と位置付けられる。一方、南巡碑は螭首、篆額、亀趺を具えた巨碑であり、とりわけ螭首は精巧な意匠であった。東巡碑、南巡碑とも南朝の作例にも見劣りしない優品であり、当時の書法や石彫技術の水準の高さが看取できる。そもそも石に文字を刻み残す、という営為は長い伝統をもつ漢族の文化である。なかでも、皇帝の治世を称える巡行碑は、秦の始皇帝の七刻石を嚆矢とする実に中華的なモニュメントといえる。非漢族である鮮卑皇帝の巡行碑が存在するということ自体が、実は彼らの漢化の深まりを端的に示していよう。平城時代の皇帝は武力による征服者から、文化的な統治者への転換が迫られる過渡期でもあった。武力により華北を支配した北魏が漢民族を統治する正統性を求められた時期とも換言できる。その時期に、鮮卑皇帝の巡行碑が立てられている点にこそ注目すべきである。石碑とは、優れた文章と書が刻まれるべき中華文明を象徴する造形物といえる。太武帝、文成帝の巡行先に皇帝の治世を称えるために石碑を立てる、ということは北魏王朝が成熟した漢文化を保持することの表象であり、文治を内外にアピールする狙いがあったのであろう。東巡碑、南巡碑の検討を通し、平城時代の書様式には同時期の南朝書法の影響が色濃くみられること、また、造形面については漢代以来の伝統的な碑の意匠が継承されていることを確認した。この二碑は、平城時代の漢文化受容の深まりを示す作例と位置付けられよう。本稿ではその他の作例については論じることができなかったが、今後はこの二碑より得た見通しをもとに、平城時代の他の作例についても調査研究を進めていきたい。― 117 ―― 117 ―

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