⑬近代日本彫刻史におけるロダニズム再考─荻原守衛帰国以前のロダン受容について─研 究 者:小平市平櫛田中彫刻美術館 学芸員 藤 井 明はじめに今年没後100年を迎える世界的に著名な彫刻家オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin 1840~1917)は、日本国内でも明治41年(1908)に荻原守衛(1879~1910)が帰国して以降、広く紹介されるようになり、荻原没後、高村光太郎(1883~1956)や『白樺』のメンバーたちの活動によって熱狂を迎えるに至った様子は今日まで美術研究書や展覧会図録のテキストなどで幾度も論述されてきた。だが、荻原が帰国する以前の状況については、これまでのところあまり研究がなされておらず(注1)、高村が《考える人》の写真を見出した『ステュディオ』(英語名はʻThe Studioʼ)の他に、明治23年(1890)から25年(1892)にかけて岡倉天心(1863~1913)が東京美術学校で行った美術史講義、明治35年(1902)に洋画家の久米桂一郎(1866~1934)が明治33年(1900)のパリ万国博覧会を視察した際の報告書、文芸評論家または劇作家として活躍した島村抱月(1871~1918)が明治40年(1907)に『早稲田文学』16号に寄稿した「欧洲近代の彫刻を論ずる書」などの存在が知られてはいたものの、一般にはロダンがどの程度知られていたかはっきりしていたとは言い難い。上に挙げた資料のいずれもがヨーロッパ旅行の経験者によるもので、それに対する国内の作家の反応がほとんど見えてこないからだ。それに加えて、ロダンの強い影響下で彫刻を始めた中原悌二郎(1888~1921)が、夜店で偶然ロダンの《考える人》の写真を発見し、大きな衝撃を受けたのが明治40年(1907)、荻原が帰国するわずか一年前のことであった(注2)。このようにロダンは荻原帰国以前に国内である程度知られていた様子はうかがえるものの、一方ではそのことを否定するような挿話があるという具合に、荻原帰国以前の状況は長い間あいまいな状態に置かれてきたのである。しかし、本年筆者が勤務する美術館で特別展『ロダンと近代日本彫刻』の開催があり、本研究助成の一部を活用して行った調査で、上記の閉塞した状況打開の糸口となりうる資料の発見があった。詳細は同展の図録に掲載した論考にゆずるが、本稿ではまずその要点を略述したうえで、展覧会終了後に行った文献調査の成果をふまえて、荻原守衛帰国以前の国内におけるロダン受容のさらなる解明を試みたい。― 133 ―― 133 ―
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