1 東京美術学校における岩村透の美術史講義2 高村光太郎の「『バプテスマ』のヨハ子」本研究成果の一つは、ヨーロッパ留学の経験をもつ美術史家の岩村透(1870~1917)が明治35年(1902)から36年(1903)にかけて東京藝術大学の前身である東京美術学校で行った講義用原稿の中にロダンの名前を見出したことである(注3)。その資料は『伊太利亜仏蘭西彫刻史稿(明治三十五年⊖三十六年東京美術学校に於て講述)』と名付けられたもので、本文は179頁、全体の8割近くを占めるイタリア彫刻の説明に続いてフランス彫刻の章があり、その章の最後にあたる「現代彫刻」に以下の記述がある。オーギュスト、ロダン(一八四○⊖ )は尚更にアカデミック派の技風に遠かつてゐる。彼は自然に就て研究し、自然のこの表情を形の壮麗に拘泥せずして、得ん事を目的としてゐる。肉附法に於てはバレーの如き廣濶なる法を採てゐる。この中でロダンは、自然を深く研究し、その自然の形をありのまま掴み取ることを目指していて、粘土の肉付けがバレーに似て「廣濶なる法」、つまり伸びやかであると説明されている。バレーとは、動物彫刻を得意とし、ロダンが敬愛の念を抱いていたアントワーヌ=ルイ・バリー(Antoine-Louis BARYE、1796~1875)のことであろう。ロダンに言及した部分は全体の中で長いものではないが、この発見は岡倉が東京美術学校で美術史講義を行った明治23年(1890)以降も、ロダンが同校の講義で取り上げられていた事実を示している点で大きな意味を持つ。そして、それ以外の年度においても同様だった可能性を感じさせるのに十分であろう。岩村はロダンという彫刻家を知り、美術を根本から勉強し直すため明治38年(1905)に東京美術学校西洋画科に再入学した高村光太郎にヨーロッパ留学を勧めたことでも知られている。高村が直接岩村からロダンに関する話を聞いたこともあったのではないだろうか。岩村の資料の発見によって、東京美術学校でロダンがどの程度学生たちに教えられていたかがだいぶ浮かび上がってきたが、荻原帰国以前のロダン受容の状況を解明するうえでそれ以上の大きな成果だったのが、高村光太郎が『日本美術』明治38年(1905)11月号に発表したロダンの解説文「『バプテスマ』のヨハ子」の発見である。実はこの文章は、昭和32年(1957)刊行の『高村光太郎全集』に掲載されていたが― 134 ―― 134 ―
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