(注4)、長い間まったく問題にされることはなかった(注5)。この文章を目にした美術研究者がいたとしても、高村の欧米留学前に書かれたものであるという事実を見過ごしてきたからだろう。だが、この文章は国内におけるロダン受容の状況を解明するうえできわめて重要な意味を持つ。なぜなら、その当時東京美術学校西洋画科に在籍していた高村の、この時期としては詳細な日本人によるロダンの解説文が見つかったことで、荻原が明治41年(1908)に帰国する三年前には、同校の在校生や高村の周辺で、ロダンの存在がかなり知られるようになっていた、と考えねばならなくなるからである。加えて、この文章によって高村が留学前からロダンに対する知識と理解を相当持っていたことが明らかとなり、この時期の高村像は今後大幅に修正を迫られることになるはずだ。さて、「バプテスマ」には、「ヨハネ」(現在の名称は「洗礼者ヨハネ」)の他に「黄銅時代」「キッス」「ダナイド」「バルサック像」「黙考」など13点の作品名が挙げられ、それぞれに短い解説が加えられている。ただし、「ヨハネ」以外は写真が付けられておらず、作品名も、例えば「青銅時代」が「黄銅時代」となっているように現在の名称と異なっている。高村は「バプテスマ」を執筆した同じ年、丸善でカミーユ・モークレール(Camille Mauclair 1872~1945)の『アウギュスト・ロダン』(以下、『アウギュスト』)の英訳版を購入したことが知られている(注6)。両者を比較すると、予期していたことではあったが、「バプテスマ」の文章は『アウギュスト』の記述と一致する点が多い。例えば「バプテスマ」の《バルザック像》の解説にある「當時の喧囂を極めたドレヒユー事件の噂も一時忘れられて了つた」という箇所は、『アウギュスト』の「即ち先のドレフユー事件を公衆が一週間の間は忘れてしまつたほどな騒擾を惹き起した」(注7)という箇所に、また前者の「世間往々氏をミケランシ原文ママヱロに比する者があるが、氏のミケランジェロに比す可き所は唯其偉大といふ點のみであつて、本來の藝術的系統は根本から相違してゐる」という箇所は、後者の「ロダンは實際以上にミケランヂエロに近く思われてゐる。思慮ある學究はわれわれをして多くの批評家を満足させた表面的類似の背後に更に深く観察せしめる」(注8)という箇所に一致する。さらに『アウギュスト』の巻末にはロダンの年譜が掲載されており、そこに代表的な作品が挙げられているが、作品の制作年が「バプテスマ」のものとまったく一致している。ロダンの作品の制作年は文献によってかなりばらつきがあるのでこのことは珍しく、以上のことから、『アウギュスト』の購入月日までは特定できないものの、高村がまず同書を読み、それを参考にしながら「バプテスマ」を執筆したことは疑い― 135 ―― 135 ―
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