鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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・高村光太郎「『バプテスマ』のヨハ子」『日本美術』10月号、明治38年(1905)10月・The Worldʼs Work vol. 11, 1905(注11)また、中原が夜店で見つけた《考える人》が掲載された書籍も書名は不明ながらこれに加えてもいいし、前に挙げた ʻEtudes sur quelques artistes originauxʼ も、先述の理由からこれに加わる可能性は高い。この他、先述したように『白樺』「ロダン特集号」に参考文献として挙げられた書籍が早い時期に国内にもたらされていた可能性がある。こうして見ると、かなりの数量だった様子が浮かび上がってくるが、それも今回の文献調査によって初めて見えてきたことなのである。まとめ以上の調査によって、ロダンは荻原が明治41年(1908)に帰国するまでにかなり知られた存在になっていたことが鮮明になってきた。最後にこの点を補足するものとして指摘しておきたいのは、この頃新聞、雑誌などで見られるようになってくるロダンに関する記事のことである。たいていの場合、記事の扱いは小さく、ロダン本人に関する説明がほとんどないので(注12)、もどかしさを覚えるのはおそらく筆者だけではないだろうが、そのこともロダンと彼の作品がある程度知られるようになっていたことを裏書きしているように思われるのである。また、先ほどの「バプテスマ」が、高村に大きな影響を与えた《考える人》ではなく、何故《洗礼者ヨハネ》を取り上げたのかという疑問に対しても、《考える人》がある程度知られた存在になっていたのであえて違う作品を選択したと考えることで説明できるように思われる。ただ、ロダンが知られるようになってきたと言っても、その範囲は東京といえども均質ではなく斑な状態で、先述したように中原のロダン体験のエピソードが明治40年(1907)、荻原が帰国するわずか一年前のことだったことからしても、作家の置かれた環境によってかなり違っていたと考えるのが正しいようだ。・FRENCH ART … 明治35年(1902)に帝国図書館が購求・The Studio, London, 1904.2・Mauclair Camille Auguste Rodin: The Man, His Idea, His Works, London, 1905… 一般にカミーユ・モークレール『アウギュスト・ロダン』(明治38年(1905))として知られる書籍― 137 ―― 137 ―

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