鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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注⑴ 荻原帰国以前のロダン受容に関する研究には次のようなものがある。 ・中村傳三郎「明治末期におけるロダン」『美術研究』163号、昭和26年(1951)11月 ・東珠樹『近代彫刻・生命の芸術-ロダニズムの青春-』美術公論社、昭和60年(1985) ・ 千田敬一「日本の近代彫刻とロダン」『「ロダンと日本」展』展覧会図録、現代彫刻センター、頁一方、東京美術学校では早くから講義の中でロダンが比較的普通に取りあげられていたようだが、その後高村を除くとロダンの受容が荻原守衛、中原悌二郎、戸張孤雁(1882~1927)、さらには白樺派のメンバーのような東京美術学校の関係者ではない人びとによって担われていったため、今日までそうした事実があまり伝えられることがなかったと推定される。そして、荻原帰国後の国内におけるロダンに対する熱狂も、その当時の新たな思想の影響等もあろうが、荻原が帰国する以前に上記の条件があってはじめて、またたく間に広まっていったと考えるのが自然のようであり、今後、荻原帰国後のロダン受容も、帰国前のこうした状況を踏まえたうえで考察しなければならないだろう。平成13年(2001)、206~211頁 ・ 田中修二「近代日本のロダン受容の多様さ」『静岡県立美術館ロダン館開館20周年記念国際シンポジウム「オーギュスト・ロダン(1840-1917)─複合的視点でとらえる─」記録論集』静岡県立美術館、平成28年(2016)⑵ 中村彝「中原悌二郎君を憶ふ」『藝術の無限感』中央公論美術出版、昭和38年(1963)、66~68頁/岩波書店、大正15年(1926)⑶ 本資料は、東京芸術大学附属図書館ホームページ(http://images.lib.geidai.ac.jp)の「貴重資料データベース」で閲覧できる。⑷ 「アウグスト ロダン作「バプテスマのヨハネ」」『高村光太郎全集 第七巻』筑摩書房、昭和32年(1957)、49頁。本文章は、小平市平櫛田中彫刻美術館特別展『ロダンと近代日本彫刻』展覧会図録にも全文が転載されている(140頁)。⑸ 『生誕150年ロダン展』展覧会図録(読売新聞社・美術館連絡協議会・現代彫刻センター、平成2年(1990))の参考文献リストには高村の文章名が挙げられているが、今日までこれに注目した彫刻研究者は筆者の知る限りでは皆無である。⑹ 高村光太郎「ロダンの手記談話録」『婦人公論』昭和17年(1942)11月⑺ カミイユ・モークレール(渡辺吉治訳)『ロダンの生涯と芸術』洛陽堂、大正6年(1917)、69⑻ 同上、192頁⑼ Etudes sur quelques artistes originaux: Auguste Rodin,statuaire Leon Maillard H.Floury 1899⑽ ロダンの彫刻作品が日本で初めて公開されたのは、広く知られるように、明治45年(1912)2月に東京赤坂三会堂で白樺主催第4回展覧会が開催され、ロダンの《ロダン夫人の胸像》《ある小さき影》《巴里ゴロツキの顔》が展示された際である。⑾ 『白樺』(1巻8号〈ロダン特集号〉、明治43年11月)の「編集記事」の中に以下の一文がある。― 138 ―― 138 ―

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