る。大聖堂において、ドームから隔たった場所に立つ観者は天井画の一部しか見ることができないが、観者の視界に入る使徒〔図1、5、6〕もまた、上方に描かれた出来事(主題である「聖母被昇天」)を認識していないのである(注9)。別稿で考察したように(注10)、S.G.E.聖堂〔図16〕においても使徒像を用いて全く同じ試みがなされていた。これを踏まえると、画家が、この観察点からドームを眺める者に対し、その画面に現れる使徒や天使を介して画中世界へと導きながら、彼らの視覚を共有させようと意図したことは明らかである。2-2.聖母マリアが現れる画面第6ベイへと進むにつれて、観者は、さらに視野に入ってくる使徒たちとともに、天国へと飛翔していく聖母マリアを眺めることになる〔図2〕。この地点では、構図の中心が聖母へと移る。先に見た使徒たちの存在は副次的となり、彼らはもはや観者を媒介する役割を果たしていない。この眺望では、聖母に抱きつく幼い天使の眼差しによって画面と結ばれ、観者は、天から降り注ぐ光に照らし出された彼女の顔へと注意が促される〔図8〕。マリアは、複雑に絡み合う天使たちの四肢や翼と混然一体となった雲に乗り、大きく両腕を広げ、恍惚とした表情で上空を凝視する〔図9〕。構図や明暗法、姿態、身振り、眼差しによって、描かれた人物の表情(感情)に焦点を当てようとする手法は、S.G.E.聖堂の天井画〔図17〕、《聖セバスティアヌスの聖母》〔図18、20〕、《四聖人の殉教》〔図19、21〕、《オリーヴ園での祈り》〔図22〕等に認められ、いずれの作品においても、死を前にした聖人やキリストの前に神的な存在が顕現している。この時期の志向としてコレッジョが、与えられた主題を、登場人物の個人的な内面体験と重ねながら表したことが指摘できる。大聖堂天井画において上半身をねじり、天を仰ぎ見る聖母マリアの姿態や視線〔図9〕は、キリストを前にした聖ヨハネ〔図17〕や聖セバスティアヌス〔図20〕、殉教する聖フラウィア〔図21〕、御父に祈りをささげるキリスト〔図22〕の姿態や眼差しと共通する。これはミケランジェロの《預言者ヨナ》(1511)やラファエッロの《聖チェチリア》(1514)に示されるように、個人の内部での神秘体験を可視的に表現する際に用いた造形語彙であった(注11)。キリストとマリアの再会をテーマとする「聖母被昇天」は、『雅歌註解』における花婿と花嫁、神と魂の合一のテーマとも結びつけられてきたことを考慮すると、上に挙げた作品と同様の手法によって、画家が、本作では、叙述的に「聖母被昇天」を表現しながら、この眺望を、聖母が心の目で見ているヴィジョンとして提示した可能性が浮かび上がる。観者は、開かれた聖母の姿勢にドームを見上げる自らを重― 143 ―― 143 ―
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