鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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ね、その恍惚とした表情や眼差しを見ることによって、神秘的合一を果たす彼女への感情移入を促されるのである(こうした手法は、バロック期の幻視絵画に継承され発展を遂げる(注12))。同時に、この観察点においては、聖母が何を見ているかはまだ秘されたままになっている。一般信徒が立ち入ることのできる最終地点(注13)、即ち、交差部空間の入口では、これまでの光景に加えてアダムとエヴァが現れる〔図3、10〕。このエヴァとの対比から、第二のエヴァとしてのマリアの役割、キリストによる贖罪と人類の救済が示唆される(注14)。スミスは、ここまでに提示される図像を通して、身廊に立つ観者(一般信徒)に、教会組織の媒介(マリアが象徴)によって救いが得られることを示す(アダムとエヴァが象徴)ことで彼らを共同体に組み込もうとしたと解釈し、本作におけるカトリックのプロパガンダとしての側面を強調する(注15)。図像選択の点で、この解釈に異論はない。しかし上に考察したように、画家は「聖母被昇天」を描きながら、一方で、絵画世界と現実世界を媒介する人物像(使徒/聖母)を用いて彼らの神秘体験を共有させることで、個々の観者への直接的な働きかけを図っている。このような聖堂空間を利用したコレッジョの造形的取り組みは、公的な天井画に重ねて、観者の私的な信心を喚起する機能を担わせようとした試みであったとも言える。3.内陣における観者の視覚経験さらに天井画を眺めるためには、聖職者のみが入ることを許された聖歌隊席へと続く階段を上らなくてはならない。内陣において突如現れるキリスト〔図4、12〕の衣は、膝上まで捲れ、剥き出しの足を露わにしており、神としての威厳は欠片も賦与されていない。技巧を誇示する短縮法、蛙のような足、図像的規範から逸脱した緑の衣、受難の傷跡の欠如や髭の無い若々しい姿に、複数の人々は不快感を示し、この人物像をキリストと同定することに疑問を呈してきた。なぜ敢えてコレッジョは、このような議論を醸し出す姿態でキリストを描いたのだろう。従来の研究では、聖母の上昇運動ばかりに着目され(注16)、下降するキリストのもたらす観者への効果について詳しく論じられていないが、彼が直立した姿勢を取るため、内陣へと進む観者は、剥き出しの足先から徐々に全身を現すキリストと出会うことになる。コレッジョはやはりS.G.E聖堂において、同じように素足を見せるキリスト像〔図15〕を描いて動的感覚を引き起こそうとする試みを行っていた。こうしたイメージの着想源の一つとして、1000年前後のアングロ=サクソン美術を起源とし北方を中心に流行した「消えていくキリスト昇天」図像の伝統(注17)が考― 144 ―― 144 ―

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