鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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えられる。昇天するキリストの身体が天の彼方に消えていく瞬間を捉えたもので、上半身は既に雲の中に隠れ、下半身もしくは足だけが覗く型である。16世紀初頭の北イタリアでも流布し、例えば、パルマのS.G.E.修道院と同じカッシーノ会に所属する、ピアチェンツァのサン・シスト修道院で使用されたアンティフォナーレ(注18)にもこの型を用いて昇天場面が描かれている。このような状況を考慮すると、コレッジョはこれを空間的にS.G.E.聖堂に展開し、ある場所でのみ、足先だけのキリスト像〔図16〕が現れるよう意図したと理解される。最後の審判の日、キリストは昇天した時と同じ姿で再び地上に現れる(使徒1:11)。従って、「再臨」を主題とするS.G.E.聖堂の天井画に「昇天」図像を援用したとしても何ら矛盾はない(注19)。他方、パルマ大聖堂においても、ある地点に立つと突然、キリストの剥き出しの足が視界に飛び込んでくる〔図11〕。S.G.E.聖堂の威厳に満ちたキリスト像とは大きく隔たっているが、「消えていく昇天」図像に着想を得た観者への演出効果という点で、前作の試みを継承していると言えよう。上半身を隠して天に昇っていくキリスト像は、受肉した神の最後の瞬間を、地上で見送る使徒たちの視点から捉えた図像であった(注20)。よってこの図像の観者は、天の彼方へと消えていくキリストを見送る画中の使徒たちの体験を追体験できるのである。本図の機能を踏まえると、パルマ大聖堂では、観者の移動にともなって、足先から次第に下降してくるキリストを見せることで、画家は、光の源に向かって上昇する聖母マリアが目にしている光景を観者にも共有させようとしたと考えられる。たびたび指摘されてきたように、パルマ大聖堂では、内陣に近づくにつれて、言い換えれば、天井画が全貌を現わすにつれて、縺れ合う手足、人体、翼、雲、光の混然とした印象が強まり、交差部手前で提示された画面において構図の中心をなしていたマリアは、その存在を消していく。キリストが現れる内陣の眺望〔図4〕においては、構図の中心はキリストへと移り、マリアの役割は二次的なものへと転化するのである。そこでマリアが凝視するのは、その地点での観者が目にするのと同じ、直立した姿勢で足先から飛び降りてくるキリストである。つまり、内陣へと進む観者は、外陣では得られなかった聖母の視覚を共有し、彼女と共に、終末に実現するキリストとの対面を先取りすることになる。コレッジョの造形語彙や手法に基づくと、彼は、観者の視点を利用してマリア/キリストを現し/隠したりすることで、単に眺望を変化させるだけでなく、それによって、外陣/内陣における観者の視覚体験に転換をもたらそうとしたと考えられる。マリア像の隠される第4ベイまでの外陣の観者は、そこに現れる使徒とともに、聖母被― 145 ―― 145 ―

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