鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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注⑴ G. Periti, Antonio Allegri of Correggio: Private Art, Reception and Theories of Invention in Early 昇天の奇跡をまだ見ることができない〔図1〕。マリアが現れキリストの隠される第6ベイまでの外陣においては、観者は、聖母を眺める使徒たちの視覚を徐々に共有することになるが、神を観照する聖母の視覚には到達していない〔図2〕。内陣では、キリストの出現によってそれまでの情景が一転し、観者はキリストと再会する聖母の視覚を経験する〔図4〕。言い換えれば、コレッジョは、各地点において観者を仲介する人物像をそれぞれ提示し、彼らの視覚体験を伝え、内陣に近づくにつれて次第にその視覚の水準を高めている。その到達点である、内陣の観者に向けて全てのイメージを晒す画面では、キリストの脚(受肉した神の人性)を軸として、場にそぐわないあらゆる姿態で描かれた無数の人体が渦を巻く〔図13〕。それは、聖なる空間において芸術の力を駆使し、自らの技によって観者の視覚を操作することを試みたコレッジョによる天国の解釈である。おわりに本研究では、パルマ大聖堂の天井画を1520-30年代のコレッジョの芸術展開へと位置づけながら、その手法と観者の鑑賞体験について考察した。その結果、外陣で見られる眺望においては、画像を契機として、観者を視覚的には隠されるキリストや天上世界に関する私的な観想へと促すような構図、人物構成、姿態、身振り、表情、眼差し、照明を画家が選択したことが跡付けられた。従来のコレッジョ研究では、特に注意を払うことなく、天井画の主題〔カトリック教会の勝利を意味する「聖母被昇天」〕に画家個人の宗教的信念〔カトリック教会への追従〕が重ねられてきたが、外陣に集う一般信徒にもたらされる効果に留意するならば、そこには、聖職者や教会組織の媒介を取り払い、神と個人との直接的な交流を求めたカトリック改革派の思想との近似が認められる。冒頭で述べたように、近年の研究では、コレッジョの宗教性が問われ、改めて、彼がベネディクト会系改革派であるカッシーノ会に所属したという事実に注目され、彼の芸術様式との結びつきが明らかにされつつある。本作も今後、この方向からの更なる考察が必要であろう。それは、単にコレッジョという一人の芸術家の問題に留まらず、16世紀初頭、つまり近代美術への転換期とされる時期の芸術家とパトロンの関係、ルネサンスにおける芸術家の創造性の理解にも関わってくる問題であると思われる。― 146 ―― 146 ―

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