鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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⑮松岡映丘門下における女流画家─長山はくを巡る諸問題─研 究 者:足立区立郷土博物館 学芸員  小 林   優女子美術学校に学び、寺崎広業(1866-1919)、松岡映丘(1881-1938)という文・帝展の重鎮に師事して、官展における女流画家の名手の一人として画壇での活躍を嘱望された女流日本画家、長山はく(1893-1995)は、しかし第二次世界大戦という難事によって、中央画壇での活動からの撤退を余儀なくされた。以降、郷里の茨城画壇を舞台に、中央からは一線を画して平成まで活動を続けるが、第二次世界大戦という苦難が、大正期の活動により地歩を得つつあった一部の女流画家の活動を再び困難なものたらしめたことを、長山の経歴は物語っている。本報告では、雑誌記事などをはじめとする一次・二次資料から、この長山の大正・昭和初期画壇における活動及び評価といった基礎的情報を整理し、その画業への再検証を行う。また、今回行った長山の遺族の保管する遺作・資料への全体整理作業および調査・考証をもとに、現存作品の具体的な総体を明らかにし、戦後における長山の画業の変遷を検証するものである。1、生家としての長山家と女子美術学校への進学長山はくは、明治26年(1893)、茨城県多賀郡高鈴村(現・茨城県日立市神峰町)に、助川郵便局長なども務める長山萬次郎の四女として生まれている。生家の長山家はもともと助川村(高鈴村の前身)の郷士であり、助川宿の形成以降は本陣を務めて代々の水戸藩主が巡村の際に投宿していた。こういったことから、長山家では水戸藩および藩主ゆかりの書画工芸品を多く所蔵していたとのことであり、長山の父、萬次郎もまた、書画を愛好する教養人だった(注1)。明治以降も続いたこうした素封家としての長山家の資力と文化的環境が、長山の後の進路選択の一助となり得たとも考えられる。また長山は、進学した水戸高等女学校(現水戸第二高校)で図画教師を務めていた飯田芳文に画法の基本的指導を受けており、こういった背景が、長山が進学先として女子美術学校を選択し得る土台を構築していったと見るべきだろう。そして、長山は大正改元直前の明治45年(1912)に女子美術学校日本画科本科高等科へ進学し、日本画家としてのキャリア形成を開始している。この進学について長山は後年、「ただ勉強がしたかった。いまの言葉でいえば進学がしたかったんですよ」(注2)と、必ずしも積極的に画家としての道を志してのことではなかったことを明かし― 151 ―― 151 ―

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