鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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ている。しかし、長山が進学する前年、明治44年(1911)の女子美術学校卒業生の割合が、裁縫科が67名に対し日本画科が12名であり、その前後を見ても一定して10名前後(注3)に留まっていたことを見ても、当時として絵画の勉強を目的としての女性の進学が必ずしも容易でなかったことが窺え、その進学が、日本画の学習という事柄に対して強い関心を抱いてのものであったことを示唆している。2、大正・昭和初期画壇での活動と画壇における評価の形成女子美術学校において、長山は川端玉章門下で川端画学校教授も務めた益田玉城に人物画を中心とした指導を受け、大正4年(1915)に同校を卒業後、鏑木清方、松岡映丘に入門を断られたことから映丘の紹介で寺崎広業に入門し、大正8年(1919)の広業の死去に伴って改めて松岡映丘の門下に入っている。とは言え、この広業門下での時期は、長山にとってまだ画業の研鑽期に相当したと見え、官展への出展によって画家としての地歩を獲得していくのは、映丘の門下に入って後のことである。この映丘門下における研究会は、長山にとって最も身近な制作発表の場であった。山口蓬春、岩田正巳、穴山勝堂らをはじめとする映丘門下は、瑠爽画社や薔薇会など、その目的に応じた研究団体を発足させていたが、その活動として特に注目されるのは、大正10年(1921)の新興大和絵会の結成、およびそれに続く国画院の創立である。しかし、映丘門下の中で急激な広がりを見せていったこの新興大和絵会に、長山が参加した痕跡は見出せない。長嶋圭哉氏はこの新興大和絵会をあくまで映丘門下における「風景画研究の分科会的なグループ」(注4)と位置付けているが、大正11年(1922)の第4回帝展出展作《やなぎあざみ》が既に草花をモティーフとする花卉図であったように、長山は入門後早い時期から映丘の一思潮である歴史画から離れて花卉図への傾倒を示しており、風景画の研究を主体とする新興大和絵会への参加の必要性が生じなかったものと推測される。とは言え、門下中での研究活動に全く不参加だったわけではなく、大正15年(昭和元、1926)には、映丘の家塾、常夏荘での研究制作として、夏目漱石の小説『草枕』を画題とした《草枕絵巻》の制作に参加して「徘徊する振袖の女」を描いており、この《草枕絵巻》は同年中に築地本願寺で展観され、大いに話題となった。この様に長山は、門下内の具体的な団体への積極的な参加はなかったものの、家塾内での研究と発表によって、映丘門下としての画法の学習と開拓を計っていたと見られるのである。一方で、長山が広く画壇おける認知を得るようになるのは、前述の第4回帝展での《やなぎあざみ》入選によってである。審査員の一人である鏑木清方は、「近時僅なが― 152 ―― 152 ―

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