鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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ら會場よりも先づ自己を顧みる作家、及作品の現るゝやうになつたのを見遁すことは出來ない、かくて第一回に臨んだことの何分かゞ具體的に生じて來たものと悦んで居る。根上富治氏の『飼鷹』、長山はく女の『やなぎあざみ』その他二三を例として擧げることが出來る。」(注5)とその作品を評しており、これにより長山は、特にまず郷里茨城において気鋭の女流画家として認知され、入選当時の新聞『いはらき』(1922年10月13日号)に「廣業門下の才媛」として取り上げられて以降度々『いはらき』の誌上に登場することとなる。そしてこれに続き、第5回(1924年、《園の花》)、第6回(1925年、《罌粟》)、第9回(1928年、《初夏の園》)、第10回(1929年、《花菖蒲》)、第11回(1930年、《庭の水無月》)、第12回(1931年、《緑の梢》)と入選を重ね、順調に画名を伸ばしている。当時、画壇においては上村松園を一つの頂点とし、島成園や木谷千種をはじめとする女流画家たちが地歩を得、さらに長山の後進として女子美術学校を卒業した三谷十糸子の登場が注目を集めていた。しかし、三谷らが画題としていたのは、松園以来の女性像であり、またこの女性像を触媒とした大正期のモダンな文化風俗であり、この潮流は当時、賛否の両面をもたらしている。これに対し、長山は初出展以来、一貫して花卉図を主題とし、女流という一点で共通するものの、三谷らとは一線を画す独自の認知を得ていた。そして第12 回帝展に寄せられた評中では既に三谷に比肩して「閨秀の名手」(注6)という認知を得るに至っているのである。この後、長山は昭和7年(1932)の第13回帝展に出展した《草原》で特選を得たことにより、画壇における地歩をより確かなものにしていくが、長山の画業を俯瞰すれば、この特選受賞前後の昭和初年が、画壇における評価の絶頂期にあったと言える。昭和4年(1929)には、川合玉堂から北白川宮美年子内親王への日本画進講の役に推薦されており、推薦の具体的な要因は定かではないものの、女流画家としての長山の人と画風が、画壇の重鎮となっていた玉堂の信認を得ていたこと物語っている(注7)。さらに、在京を主体とする各文化的分野の著名な女性を網羅し、昭和5年(1930)以降、定期的に刊行された『日本婦人録』(吉村幸夫編、日本婦人録刊行会、1930年)の初刊昭和5年版には、文筆家の宇野千代らと共に「日本画家」として長山が取り上げられている。長山とほぼ同時期に評価を得ていた三谷十糸子が掲載されないなど、選抜の具体的な基準は定かではないが、同書中には他に、院展の日本画家、石山太白の婦人にして自身も日本画家として活動した石山喜世などの名も見られ、当時の社会における長山の認知を示していると言えるのである。そして、こうした認知と評価を反映し、師の映丘も長山を門下中における女流画家― 153 ―― 153 ―

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