鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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の代表格とみなしていたと推察される。昭和11年(1936)3月に刊行された『塔影』第12巻第3号は、「古今閨秀畫家特輯」として近世近代の女流画家の評論・論考を掲載しているが、その中の設けられた「門人を語る」というコーナーで、映丘が長山の経歴と画法的特徴を述べて「長山はくのこと」として掲載している。この「門人を語る」は、安田靫彦が「溝上遊亀のこと」、前田青邨が「木下春のこと」、さらに菅楯彦が「人間としての生田花朝」を寄せているように、自身の門下中における第一の有望株を喧伝する場であった。この中で映丘は、榊原縫子や真木薫子といった他の女流門人らを置いて長山を紹介しており、映丘の長山に対する評価を象徴すると言えるのである。また、同書中の神崎憲一による「現代閨秀作家概観」では、三谷十糸子らのように個別に取り上げられることこそなかったものの「帝展系の人達」として「現役の筆頭とでも云ふ位置にある長山はく、浅見松江女史」と紹介されており、ここに至って、三谷らに次ぐ帝展女流画家の第一人者の一人としての認識が形作られていたと見ることが出来るのである。さて、このように長山は大正から昭和初期画壇において地歩を得たが、第二次世界大戦の戦火により中央画壇から撤退し、中央画壇での地盤を失することとなる。昭和13年(1938)、映丘が没すると、未だ画家としての研鑽を希望した長山は、同門の山口蓬春(1893-1971)を新たに師として制作を続けていく。その姿勢は戦中も変わらず、「傷兵慰問特集号」として刊行された『詩と美術』創刊号(詩と美術社、1939年8月)には作品《芍薬》を掲載し、紀元二千六百年記念の昭和15年(1940)にあたっては、展覧会および記念画集などに作品の出展・掲載が見られる。だが、戦況の悪化に伴って、昭和20年(1945)に東茨城群御前山村の親類、関澤氏のもとに疎開すると、その年の5月の東京大空襲により東京に残していた画書、画材および出展作のほとんどを焼失する悲劇に遭い、以降、疎開生活の中で中央への出展から遠ざかり、以前より官展と並行して参加していた茨城画壇との結びつきを強めていった。大正12年(1923)以来、長山はいはらき新聞社の主催によって開催されていた茨城美術展への出展と入選を重ねており、県内画壇における認知を既に得ていたが、戦後となる昭和22年(1947)には、横山大観、斎藤隆三らによって結成された茨城美術会に、酒井三良、永田春水らと共に賛助会員に加わり、さらに24年(1949)には茨城の地方団体である白牙会の日本画部に参加している。この中、翌25年には第五回日展に《しゃくやく》を出展し、北白川宮家がそれを買い上げたものの、以降は完全に茨城画壇、および郷里日立の市展への出展に留まり、中央画壇との距離を広げていく。これは一重に、戦後の生活難から作画が困難であった故であったことを長山は後年、述― 154 ―― 154 ―

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