鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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のほとんどに正確な制作年代を特定することは出来ないが、一部の作品には展覧会の出展票が付されており、また、あわせて長山が戦後、主な出展の場とした茨城美術展覧会(茨展)や茨城県美術展覧会(県展)、茨城県芸術祭美術展覧会、日立市展の記録を見ることで、一部の作品に関しては具体的もしくはおおよその制作年代を特定することが出来る。そしてまた、それによって長山の画風の変遷を探ることが出来る。A群の作品中、出展票および記録等により出展作であることが特定出来るのは、A-3《富貴花》(第3回茨城県美術展覧会、1950年)〔図2〕、A-5《月》(第1回茨城県芸術祭美術展覧会、1966年)〔図3〕、A-7《花菖蒲》(第2回日立市展)、A-8《芥子》(第5回茨城県芸術祭美術展覧会、1970年)、A-11《夕月に咲く》(第11回茨城県芸術祭美術展覧会、1977年)の5点であり、A-17《緑の精》〔図4〕は平成4年(1992)の個展「白寿展」(日立椎の広場アウリット)の開催に当たって制作されたものであることから、最晩年の作に位置付けることが出来る。またこの他、A-13《花》やA-14《花》、A-15《浜木綿》、A-16《洋らん》などは、出展票が付され、出展作であることは確定出来るものの、同名作の出展記録が幾つか見られることから出展先・年代の具体的な断定が困難であり、おおよその範囲での制作年の推測に留まっている。さらに、これに加え、第4回帝展の《やなぎあざみ》以降、第5、9、10、11、12、13、14回帝展の出展作は、原物の所在こそ不詳であるものの、財団所蔵の出展時に制作された絵葉書により、その画像を知ることが出来る。長山の生涯に亘る作数から見れば、極めて一部分ではあるものの、これらの作例は長山の画業のほぼ全体にまたがる。そしてこれらを俯瞰すれば、長山は帝展期から、少なくとも戦後昭和20年代の《富貴花》に到るまで、映丘が「長山はくのこと」中で「大和繪の色彩感覺を素養に置き、自然の冩實を元として一種の象徴表現を試みようとする」(注9)と評した端麗な色彩と細密な写実的描写によって、一定の余白を伴う花卉図を構築することを意図していることが窺える。一方で、昭和25年(1950)の第5回日展を機に中央画壇への出展を途絶して16年後の、第1回茨城県芸術祭美術展覧会出展作《月》では、一点して濃厚な色彩と岩絵具の厚塗りによって余白と輪郭線の要素を全く排除した、立体感のある描法へと転じている。映丘は同じく「長山はくのこと」中で既に「幾分か立體感を表現しやうとしてゐる點も、長山の特色の一つではないかと思つてゐる」と、この立体的描写の萌芽を見出しているが、《富貴花》と比較すれば、特に両作品を制作した昭和20年から40年半ばまでの疎開先、御前山村での生活の中で、長山が極端なまでの作風の転換を計っていることが窺える。この画風変化の一因として推察されるのが、映丘の没後、長山がその後の師として― 156 ―― 156 ―

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