鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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仰いだ山口蓬春からの影響である。蓬春は戦後昭和30年代、新たな日本画の方向性として余白性や主線性を脱し、色彩と形態による蓬春独自のリアリズムの造形的表現を開花させている。蓬春はこの後さらに光と量感を追究し、濃厚な色彩の中に墨を用いた隈取りを施すなどの油彩画的な手法を展開していくが、《月》に見られる写実的な量感と黒による隈取りの表現はまさに、この昭和30年代の蓬春の手法を彷彿とさせるものである。蓬春の日記によれば、長山はまさしく蓬春がこれらの手法を明確にしはじめる昭和30年(1955)に、二度に渡って神奈川県三浦郡葉山町の蓬春宅を訪れており(注10)、この時期に長山は蓬春と密接に接して、作画と画論を間近に得る機会を得ていたと考えられる。長山の他の遺作を見れば、隈取りの効果を一層強調した例、さらに厚塗りによる濃厚な写実的表現をより突き詰めた例なども見られるが、A-18《ひまわり》〔図5〕などは、明確に蓬春のリアリズムと造形からの学習であり、A-117《グラジオラス》〔図6〕の明瞭な色彩と単純化された独特な造形描写などからも、長山が映丘後の師である蓬春の画法を習得せんとしていたことがよく窺える。この点を鑑みれば、長山は中央画壇への発表から遠ざかった後、必ずしも自己以外に完全に背を向け、独自の道を邁進したのではなく、蓬春を接点として戦後日本画壇の一潮流としてのリアリズムを取り込み、出展によってそれを茨城画壇に顕示していたと見るべきだろう。そして後年、長山の画法は次の段階を示している。長山の最晩年作たる《緑の精》は、《月》の濃厚な写実的描写を脱して、水分によるにじみの利用が顕著になっている。他の遺作からも、従来の濃厚な構成に比して全体あるいは部分的ににじみを多用している例が見出せ、具体的な移行時期は不詳ながら、これが蓬春調のリアリズムに続く、長山晩年の画風であると見ることが出来るのである。さて、以上のことを踏まえ、画歴と作風的な変化から長山の画業全体を大分すれば、女子美術学校での学習から寺崎広業門下での「研鑽期」、松岡映丘門下として帝展出展をはじめとして高い評価を確立した「戦前期」、そして戦後、茨城画壇を舞台として蓬春調のレアリズムと自己の晩年の表現を構築した「戦後期」というように、その経歴と画調の変化を三つに大分することが出来る。「戦後期」の表現は濃厚なレアリスム的表現と、最晩年のにじみを多用する表現の二面が見られるが、この両画調をより細密に分離させるには、出展作の特定などにもとづくさらなる検証が必要であり、現段階ではこの三期に大別するのが妥当だろう。そして、この三期の中に包括される長山の画業は、戦火が以降の美術史上での評価― 157 ―― 157 ―

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