注⑴長山は、後年の新聞取材で「父の萬治郎は初代助川郵便局長を務め書画に凝っていたので家のなかには林十江や立原杏所などの掛軸がかかっており」(「日本画家長山はく子さんに聞く 上」『新いばらき』1987年9月7日号)と述懐している。を損ねたことを典型的に示しており、また同時に、郷里たる地方画壇が、それらを救い上げる機能として働き得たことをも示唆している。今回の調査・報告では、近代画壇において確かな足跡を残した女流画家としての長山の画業に対して、基礎的な情報の整理と作品検証を行うことで、戦前当時における実像と、戦後を含めた活動の全体像を包括的に明らかとすることを重点とした。今後、同時期における女流画家たちの活動の実態や、戦前戦後を挟んでの中央と地方画壇の関係といったより多角的な視座から、さらに調査を試みていくものである。⑵「日本画家長山はく子さんに聞く 上」(『新いばらき』1987年9月7日号)。⑶女子美術学校編『女子美術学校八十年史』(女子美術学校、1980年)参照。⑷長嶋圭哉「大正・昭和戦前期における岩田正巳の画風変化について─新興大和絵会、国画院とのかかわりから」(新潟県立近代美術館編『新潟県立近代美術館研究紀要』第9号、新潟県立近代美術館、2010年17-25頁)⑸『美術之日本』第14巻第10号(審美書院、1922年10月、25頁)。⑹「第十二回帝展作品作者總案内」(『美之国』第7巻第11号、美之国社、1931年11月)121頁。⑺以降、戦中期を挟んで北白川宮家との親交は続いており、野口小蘋が皇室との結びつきを一つの契機として画家として自立を成し得たように、長山もまた一時においては女流画家としての自立の道を歩み得る可能性を示していた。⑻長山は後年、新聞『新いばらき』のインタビューに答えて、「蓬春先生からは再三にわたり作品を出品するようにとお勧めのお手紙を頂くのですが、この時代食べていくのがやっとで絵を描くなんて暇はありませんでした。」(「日本画家長山はくさんに聞く 下」『新いばらき』1987年9月21日号)と述懐している。⑼松岡映丘「長山はくのこと」『塔影』12巻第3号(塔影社、1936年3月、49-50頁)⑽山口蓬春記念館編『山口蓬春日記』第3巻(山口蓬春記念館、2008年)26頁、昭和30年「六月十二日」の項に「長山はく女来る。宿泊す。」の記述があり、さらに44頁の同年「十一月二十四日」の項には、「夕、長山はく女史と舟山三朗来話す。」の記述が見える。― 158 ―― 158 ―
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