鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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や貴人等からなる人物の列が続き、後景へ向かうにしたがって段々と小さく描かれていくこと、後景の巨大な建築や山々と矮小な人物が対比されていることの2点によって巧みな遠近法の構成となっている。一方、第35、36幅は人物描写から明らかに描き手が異なることが明らかで、構図が整理されていない等から、弟子が手掛けた画幅であると想定される。最も注目したい画幅は第37~40幅〈六道 天〉である〔図4、5〕。第38、39幅における『北斎漫画』須弥山の引用は既に述べたが、これを中心として〈天〉の4幅が構成されていることは明白である。さらに第38幅における銅版画の引用については、既述したように「陸奥国石川郡大隈滝芭蕉翁碑」左側の激しく白く波立つ川の流れが、増上寺本に描かれた白雲が後景から流れてくる様子に合致する〔図6〕。また、第38幅右上の描かれた建造物が銅版画の土手の形と酷似していることも両者を引き合いに出す根拠である。迫真性の再現は期待した通りではなかっただろうが、一信は銅版画の目に新しく、真に迫った水流の表現を参照し、当該の描写に充てたのであろう。第37、38幅は手前から奥に向かう雲の方向性が強いが、続く第39、40幅では上下移動の方向性が強い。帝釈天の住まう忉利天がある須弥山の頂上と、四天王の住まう須弥山中腹の違いが意識されている。この例により、一信が様々な典拠の各所を部分的に用いて、梵土表象を一つずつ構築していったことが明らかである。増上寺本において明暗の強い陰影法が用いられるのが100幅の内、3幅であることは周知のことだが、改めて現存する一信の作品を概観してみても珍しい。先行研究において明暗が強調された陰影法の効果については色面の対比による迫真性の付与、部分的に用いられたことについては江戸時代の絵師が選択した表現方法の一つとして取り入れたとされている。特に、金子信久氏は、増上寺本の陰影について「いったん陰影をつけずに彩色を仕上げた後に透明感のある淡い墨色を上から丁寧に施しているようにみえる」と言及している(注7)。これを受けて陰影という表現方法から一旦離れ、淡墨の用い方という観点から一信の描法について考察してみたい。濃彩でははなく水墨画ではあるが、「苦行釈迦図」(アメリカ・スペンサー大学ミュージアム蔵)〔図7〕に施された淡墨表現の意図は、大いに示唆に富む。陰鬱な表情をし、瘦せこけた体の釈迦が片膝を立て岩に坐している。釈迦の円光の周辺には淡墨が施され、光の表現であると同時に、思索する釈迦の深遠な心の悩みを表現している。岩の周りには淡墨で雲が描かれているが、岩を囲むように描かれた雲は外界から釈迦を完全に切り離すものである。具体的な背景は描かれない。つまり「苦行釈迦図」は、苦行する釈迦の孤独で深い悩みを表す心象風景であり、淡墨は釈迦の孤独や修行の厳しさを我々に伝えるツールとなっているのではないだろうか。このように考えれば、増上寺本第45― 7 ―― 7 ―

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