では「書」も調査対象であり(注5)、この調査に携わっていた小杉榲邨や今泉雄作は『稿本日本帝国美術略史』の執筆陣に加わっている。ただし、『稿本日本帝国美術略史』で「書」を取り扱うことはなかった。また、「日本美術史」の端緒としては、岡倉天心の東京美術学校での「日本美術史」講義が知られる。岡倉は小山正太郎といわゆる「書ハ美術ナラス」論争をおこない、「書」を擁護する立場を採った。しかし、岡倉の「日本美術史」筆記録には「書」の記述はなく、また他の著述をみても「書」を「美術」として積極的には評価していない。また、岡倉は高橋健三と共に『国華』(明治22年)を創刊したが、「書」は主な対象ではなかった(注6)。岡倉筆と推定されている「国華発刊ノ旨趣」には、「絵画、彫刻、建築及美術工芸ノ実業ニ至ルマテ逐号定見ヲ呈出シ以テ考古利今ノ指針タラントス」とあり、「書」については特に触れられていない。他に、個人の著作として、福地復一著『美術年契』(明治24年)や、高山樗牛著「日本美術史未定稿」(明治34年)、大村西崖著『東洋美術小史』(明治39年)等を確認しても、「書」の記述はない。この時期、「美術史」形成に伴い、美術全集(注7)も刊行され始める。例えば『国宝帖 美術写真』(明治29年)や『古今名家美術集覧』(明治29年)、『真美大観』(明治32年)があるが、ここでも「書」は収録されなかった。「書」を収録しない経緯はいずれの出版物でも説明されていないが、西洋的な「美術」概念の導入により「書」を「美術」に位置付けない傾向が強かったことが影響していると考えられる(注8)。1-2 「書道史」形成の萌芽このような傾向の反動として、「書」を評価しながら「書道史」を記述する動向が現れ始める。まず関根正直が明治23年(1890)に皇典講究所での講演録「書法の由来を述べて其美術なる所以に及ぶ」を発表し、川田甕江はその2年後、東京学士会院での講演録「書は美術たるの説」を発表した(注9)。彼らは「書」を「美術」とし得る例証として、古代から近世までの「書」の歴史を概説した。これに続く「書道史」形成の担い手として、特に注目されるのが小杉榲邨である。関根、川田、小杉は共に『古事類苑』編纂に携わり、史学形成に貢献した点が共通している。小杉は、「美術」の他分野に比べて「書」の歴史が顧みられず、名跡が周知されていないことを発端として、『大日本美術史』(明治28年)を刊行した。『大日本美術史』は「美術史」の名を冠して「書道史」を実証的に通観した画期的な書物であった。小杉は自身の宝物調査、東京美術学校における「書学」講義、そして文献考― 185 ―― 185 ―
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