鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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証の成果を『大日本美術史』に反映したのである。江戸時代の書論の中でも、特に能書伝の形式を引き継ぎ、人物主体で書の歴史を記述している。昭和初期には書跡主体の「書道史」が編まれていくことを鑑みると、『大日本美術史』は「書道史」の過渡期の形態であった(注10)。小杉は『大日本美術史』の刊行と同時に、ほぼ同内容を『国華』に「本朝書法」として精力的に掲載した。以上のように、明治20、30年代は「書道史」形成の萌芽期で、その担い手は史学形成に携わっていた国学者達であった。2 書学の独立と振興(Ⅱ期)2-1 美術全集と書道全集続く明治40年代から大正初期までは、盛んに美術全集が刊行された。明治40年代以降の美術全集の出版は、審美書院(注11)と国華社の果たした役割が大きい。まず審美書院は『東洋美術大観』(明治41年)や『特別保護建造物及国宝帖』(明治43年)を刊行した。『東洋美術大観』では日本と中国の「絵画」と「彫塑」を年代順、流派別に配列した。内務省編纂の『特別保護建造物及国宝帖』では「建築」、「彫刻」、「絵画」、「工芸」を紹介した。国華社は『東洋美術図譜』(明治42年)を刊行し、その上巻を「建築の部」、「彫刻の部」、下巻を「絵の部」に当てた。『日本美術名作集』(大正11年)は、『国華』の挿図より「本邦古代絵画彫刻建築応用美術の代表的傑作」を選択し、年代順に掲載した。いずれを見ても、「書」は掲載されていない(注12)。これらの出版社から、書道全集が刊行されなかったわけではない。美術全集とは別に、独立して刊行されたのである。ただし、「絵画」や「彫刻」を中心とした美術全集が盛んに刊行された一方で、書道全集は圧倒的に少なく、書学の体系化はまだ進行していなかった。審美書院は『和漢朗詠集』(明治41年)、『賀知章草書孝経』(大正2年)、『董其昌詩画帖』(大正8年)、『頼山陽先生真蹟百選』・『頼山陽先生百年祭記念遺芳帖』(昭和6年)を刊行したが、いずれも網羅的な全集ではない。唯一、『支那墨宝集』(明治43年)は、御物や正倉院、各社寺、個人の所蔵品により、東晋から元までの書跡を60点弱紹介した刊行物で、全集としての形式を整えていた。その形式に着目すると、図版と作品名、所蔵、作品解説文を付しており、美術全集の形式を踏襲していた(注13)。2-2 『書苑』刊行と書学の振興そのような中、書道団体の法書会が雑誌『書苑』(明治44年)を刊行し、書学は大― 186 ―― 186 ―

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