きな転換点を迎える。それ以前の書道雑誌の中では『書鑑』(明治24年)や『談書会誌』(明治40年)が書跡の図版を掲載・解説していたが、「書」の「研究」を明確に謳った書道雑誌は『書苑』が端緒である。法書会は「書道を研究して其向上発展を期する」ことを目標に掲げ、幹事は磯野於兎介、大口周魚、岡山高蔭、高田竹山、田中親美、黒木欽堂、後藤朝太郎、油谷達、七條愷、樋口銅牛の10名が務めた。法書会は『書苑』を「書道研究唯一の標準的刊行物」として(注14)、大正9年(1920)まで100号を刊行した。『書苑』の形式に注目すると、誌面は四六四倍判、頁数は約20頁、内容は論考を中心とした。巻頭に書跡や印の精巧な図版を掲げ、図版には「解説」を付している。『書苑』の形式は、『国華』と近似しているのである。実際に、当時の新聞幾種で両者の近似性は指摘されており、特に『朝日新聞』では「東洋画に「国華」あるに対して東洋翰墨に「書苑」出でゝ之に対抗し従来余り重きを措かれざりし東洋翰墨の為めに気勢を揚ぐべしと期待せられし」と記された(注15)。『書苑』は『国華』と同形式を採りながら、美術雑誌から独立して刊行されたのである。この頃、書家達は書学振興の必要性を自覚していた。例えば、『書苑』の論考執筆者の一人、後藤朝太郎はこの時期、「旧来の書道を中心に骨子となし、之に新学問の多くを綜合して一つの『書学』の一学問が東洋の天地に成立し得る」として、「書学」の成立を希求している(注16)。そのような要望を結実する形で刊行された『書苑』は、論考として「書論」、「書話」、「講義」、「漫録」を掲載し、金石、古文字、古筆、書論等、各論の発展を促した(注17)。ここで仔細は述べきれないが、幹事の中では大口周魚や岡山高蔭、田中親美が古筆の論考や図版解説を、高田竹山や樋口銅牛が古文字の論考を精力的に展開している。また、学際的研究者を招き、史学・美術史学の方法論を書道史研究に展開しようと試みた点も特徴である。特に、「書」を評価していた建築学の伊東忠太(注18)や関野貞、塚本靖は、中国や朝鮮半島の遺跡調査を踏まえて石碑等の論考を発表している。さらに、各巻の図版は年代順に体系立てて掲載されたわけではないが、結果として名跡とその所蔵を整理する側面があった。『書苑』の刊行を通して書家兼研究者が台頭し、各論の研究が発展して、平凡社の『書道全集』誕生の体制を整えていったのである。3 「書道史」の普及(Ⅲ期)3-1 「美術史」単著と「書道史」単著大正期から昭和初期にかけては、黒田鵬心や森口多里、藤懸静也等によって「日本― 187 ―― 187 ―
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