美術史」、「東洋美術史」が執筆された。それらを実見すると、依然として「美術史」の枠に「書」を含めない傾向は根強かったことが窺える。ただし、中には大村西崖のように「東洋美術史」として「書」を評価する向きもあった(注19)。まず大村が刊行した『東洋美術小史』(明治39年)は、中国・インドの美術に触れながら、日本の「絵画」と「彫刻」を主として「作風変遷の大綱」を説いたもので、ここでは「書」は記述されていなかった。大村の「東洋美術史」に「書」が包含されたのは『東洋美術史』(大正14年)である。目次に「書」や「篆刻」が明記され、本文でその歴史が時代順に概説されている。大村による「緒言」には、「書」について説明されてはいないが、「芸術の種類に至りては、西洋のやうに美術を絵画と彫塑とに限らず。謂はゆる工芸の範囲に属するものまでも併せて説かうと思ふ」とある。このように、西洋的な「美術」概念を俯瞰し、「東洋美術」を再評価する動向もあった。一方、書道界では、「美術史」から独立した「書道史」の単著の刊行が急速に進展していく。その要因として、比田井天来が「文検」習字科の試験内容に「書道史」を導入したことが考えられる。当時、「美術」や「音楽」は専門学校が設けられて「美術史」や「音楽史」が学ばれたが、「書」を専門的に学ぶ場は学校教育に存在しなかった。このような教育状況に危機感をもった比田井は、「文検」委員を引き受けると共に、大正7年(1918)に「文検」習字科の試験内容を改革した。結果として、全国の「文検」受験者達に「書道史」学習の重要性が認識され始め、その影響で「書道史」の単著が多く刊行されることとなった。これらの「書道史」の中で専門的な色合いが強いものとして、奥山錦洞著『日本書道史』(昭和2年)、藤原鶴來著『和漢書道史』(昭和2年)、川谷尚亭著『書道史大観』(昭和3年)、鈴木翠軒著『新講書道史』(昭和8年)が特筆される。とりわけ、奥山の『日本書道史』は「日本書道史」の名称を持つ初めての刊行物と考えられる。「文検」委員の尾上柴舟と丹羽海鶴が序文を寄せている。奥山は、『日本書道史』の「参考書」として小杉の『大日本美術史』を挙げ、また『書苑』の成果の大きさを指摘している。これらの「書道史」は人物主体の記述ではなく、書跡主体の記述であった。昭和初期からは、前代までの成果の集成として、書家達による「書道史」の単著がにわかに刊行され始め、「書道史」の普及が図られたのである。3-2 『世界美術全集』と『書道全集』時に、世間では、印刷技術の革新によって出版の量産体制が確立し、「全集」・「講座」のシリーズ出版が相次いでいた。そのような中で平凡社は、『現代大衆文学全集』の― 188 ―― 188 ―
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