後続企画として、「美術の大衆化」を目的に『世界美術全集』(昭和2-5年)の刊行を始めた(注20)。「美術全集」の名を冠した初の全集である。『世界美術全集』の大きな特徴は、古今東西の美術を「年代横断法」によって、共時的・横断的に示した点である。編輯委員の田邊孝次は、欧州美術史を一冊にまとめたアンドレ・ミシェルの美術史(注21)を参照し、「東西両洋の美術とわが国のそれとの対照を一目瞭然ならしめ」ることを『世界美術全集』の目的に据え、その画期的な方法と価値を説いている(注22)。各巻の解説文である「概説」は、大きく西洋と東洋、日本に分けられ、各時代は主に「絵画」、「彫刻」、「建築」、「工芸」の順序で説明されている。執筆者は総勢約90名で、とりわけ「概説」執筆者の伊東忠太、黒田鵬心、森口多里、関野貞、田辺孝次、藤懸静也、源豊宗、木村荘八、鎌倉芳太郎や、解説文執筆者の斎藤隆三、沢村専太郎、春山武松は個人で「美術史」を執筆した人物である。また、平凡社は『世界美術全集』刊行後、続けて『世界美術全集別巻』を「姉妹篇」として刊行した。刊行理由は、『世界美術全集』が「広義による『美術』のもとに含まれるべき、尚幾多の種類項目を残した」ためと説明している(注23)。『世界美術全集別巻』は分野別(「絵画」、「建築装飾」、「図案」、「服飾」、「陶磁」、「工芸」、「民族芸術」、「庭園」、「都市美」)の配列となっており、従来の「美術」概念に囚われずに、芸術分野を評価しようという動きが看守される(注24)。ただし、この二種類の『世界美術全集』では「書」を含めていなかった。しかし、『世界美術全集』の刊行中、読者から「東洋芸術の総府と言はるゝ書道をなぜ加へないのか」という抗議が「雨のやうに」集まったという(注25)。そこで、昭和4年(1929)には、『世界美術全集』の「姉妹篇」としながらも、独立した『書道全集』を刊行することが平凡社で企図されたのである。『書道全集』と『世界美術全集』の形式を比較すると、大きさ(四六倍判)や組、時代概説・図版・図版解説を一冊に整理している構成、刊行順序の不規則性、「月報」の付属は同様である。また、『書道全集』の大きな特徴は、『世界美術全集』の「年代横断法」が継承されたことであった。平凡社社長の下中彌三郎は、「書道は実に東洋芸術の総府」とし、『書道全集』を「書道の一大金字塔」として「整然と年代順に配列して書道の沿革及び各流派の異同を一目瞭然たらしめ」、図版による「一大書道史」を作り上げるとした(注26)。また、編集の段階で、「書道全集と云ふ名称の示すが如く書の美を発揮するを経とし、それに漢字の変遷、系統等学術的方面を緯として書道全集廿四巻を織り成」す方針を定めた(注27)。― 189 ―― 189 ―
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