鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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⑳日清戦争期における小林清親の諷刺画研究─『日本万歳 百撰百笑』を中心に─研 究 者:吹田市立博物館 学芸員  市 村 茉 梨小林清親(1847~1915)は明治から大正初期に活躍した浮世絵師であり、「光線画」と称した風景画《東京名所図》シリーズで知られる。また、明治14年(1881)に団団社に入社し、明治26年(1893)7月まで風刺週刊雑誌『団々珍聞』の挿絵を描いたほか、『清親ポンチ』『面相三十二相』シリーズをはじめとする諷刺漫画を発表する。そして、明治10年(1877)の西南戦争、明治27年(1894)の日清戦争、明治37年(1904)の日露戦争には戦争錦絵を手がけている。清親の画業について、光線画研究のほかにも、近年には、あまり注目されることの無かった日清・日露戦争期における戦争錦絵や諷刺画も調査、研究され始めている。また、清親没後100年となる平成27年(2015)には、これらを題材とした展覧会が各地で開催された。本研究では、清親の日清戦争期に発表した諷刺画を取り上げる。具体的には『日本万歳  百撰百笑』に収録されている50点の諷刺画についてみていき、その描写表現などから、諷刺画を通して日清戦争をどのような形で表現しようとしたのかを確認するとともに、日清戦争以前に行っていた諷刺画やポンチ画制作がどのような形で本作に影響を与えていたのかについて考察する。ここでは早稲田大学図書館所蔵の作品(以下、早稲田本)と国立国会図書館所蔵の作品(以下、国会本)を調査対象とした。1章 小林清親の諷刺画・漫画制作について清親が諷刺画や漫画などを制作し始めたのは明治14年頃とされ、この時『清親ポンチ』シリーズを発表する。また、同年には団団社に入社し、翌年15年(1882)から26年(1893)まで『団団珍聞』の挿絵担当となり、多くの諷刺画を手掛けていく。『団団珍聞』とは、明治10年(1877)から野のむら村文ふみお夫(1836~1891)によって創刊された時局週刊諷刺雑誌である。広島藩医の家に生まれた文夫は、適塾に入門し蘭学を修める。慶応元年(1865)には適塾の後輩らと共にイギリスに密入国し、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』といった挿絵入り新聞や週刊誌を目にし、新聞事情について日本との差を目の当たりにする(注1)。明治元年(1868)に帰国し、その後民部省などで出仕をするも明治10年(1877)には退官。同年2月に団々社を結成、そして3月には『団団― 205 ―― 205 ―

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