珍聞』を発行した。本誌はイギリスの漫画雑誌『パンチ』を手本としており、時事問題を漫画や戯文で批判するという精神のもと記事が制作された。とりわけ、薩閥政府の批判や自由民権運動を主張に重きを置いており、雑誌の内容についても、運動を鼓舞するものとなっている。本誌の挿絵は、創刊当初は洋画家の本多錦きん吉きちろう郎(1851~1921)が担当しており、緻密な線によって政治家らの似顔絵を描き、それによって彼らを痛烈に諷刺した漫画は人々の心を掴んだという(注2)。当初は東京でのみ販売していた団団珍聞であったが、徐々に販売拠点を増やし、明治12年(1879)には全国誌として各地に名を馳せることとなる。このように、団団珍聞が盛況を博す中、清親は「東京名所図」シリーズの制作を辞め、諷刺画や漫画の制作へと活動の場を移していく。そして、明治14年、清親は《清親放痴 東京谷中天王寺》という錦絵を発表する。その内容は、人物はすべて骸骨で描かれており、夕涼みをしていた男女が警察に解散を命じられているという内容となっている。これは、前年4月に制定され、同年12月には改正強化された集会条例を諷刺した作品である。また、明治15年に起きた福島事件の犠牲者たちを称える《天福六歌撰》という錦絵を、事件の翌年に原篤胤と共に出版しようとするも、6枚中3枚刊行した時点で発禁処分を受ける。このように、団団社入社前より積極的に当局を諷刺した錦絵を刊行しており、清親自身も新政府に対し憤りを感じ、民権運動に対し共感を受けていたことが見て取れる。そして、団団社入社後は、より諷刺性を強めた漫画を次々と発表する。しかし、明治21年(1888)以降、自由民権運動が終息し始めると、清親の諷刺画への情熱も弱まっていったという(注3)。さらに、明治26年7月には団団社を突然退職する。退職後は新聞の挿絵などを描いていたようだが、明治27年に日清戦争が勃発すると、再び錦絵制作に戻り、戦争錦絵や『日本万歳』シリーズを手掛けることとなる。2章 『日本万歳 百撰百笑』について『日本万歳 百撰百笑』は、明治28年(1895)に刊行された木版錦絵である。国会本には一部発行日と版元がわかる錦絵があり、それによると、版元は大黒屋の五代松木平吉で、明治27年9月から翌年3月まで刊行していたようである。『百撰百笑』とは、「百戦百勝」をもじったもので、50点のシリーズ物の錦絵となっている。『日本万歳』は日清戦争にまつわる題材を取り上げたものであり、それが人気を博したので、『社会幻燈』シリーズも続けて刊行している。また、早稲田本には「目次」と「口上」が― 206 ―― 206 ―
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