②中世における冥府彫像の成立と展開研 究 者:上原仏教美術館 学芸員 森 田 龍 磨はじめに日本における閻魔王の造形化がいつから始まったのかという問題に対して、美術史の立場から具体的な考察を行ったのが中野玄三氏である(注1)。中野氏は平安時代に日本へ密教が伝わったのを契機に密教尊としての閻魔天が造形化され始めたとし、浄土教の普及にともない閻魔王へと展開していく過程を指摘した。中野氏の説は現在においても有力であり、閻魔王に関する基礎研究となっている。しかし、中野氏が論中で取り上げている彫刻作例は限定的であり、考察の対象は彫刻作例よりも絵画作例に比重が置かれている印象を受ける。その理由として中野氏が論考を発表した当時は、未だ彫刻作例の確認件数が少なかった状況が考えられるが、近年では鎌倉時代を中心に基準作例の確認件数も増加しつつある。そのような状況において、中野氏の説を踏まえ、冥府彫像(閻魔天、冥官、奪衣婆なども含めた冥府信仰に関する彫像全般を指す)を網羅的に取り上げた杉崎貴英氏の論文が注目される(注2)。杉崎氏は冥府彫像の造像史を整理したうえで、冥府彫像が安置された場に対する考察を行うなど、幾つもの重要な指摘を行っている。ただし、杉崎氏自身も論中で述べられているとおり、個々の問題についてはなお検証の余地が残されているように思われる。本稿ではこれら個々の問題に関して議論を深めていく余裕は無いが、議論の前提として冥府彫像の尊像構成を整理しておきたい。現存作例と記録から確認できる冥府彫像は特定の尊像構成に分類が可能であり、その分類は時代別に増減が見てとれる。その中でも基準作例に恵まれ、かつ冥府彫像が本格的に流行し始める鎌倉時代の作例を中心に本稿では論じたいと思う。鎌倉時代の冥府彫像の尊像構成については、中野氏が「閻魔王・太山府君・五道大神・司命・司録の五尊像が多かったようで、これは絵画の閻魔天曼荼羅の中心部ともその構成を等しくしている」と指摘しているが(注3)、筆者も同様に考える。このような問題意識から冥府彫像の尊像構成の実態を確認し、若干の考察を加えてみたい。冥府彫像の尊像構成本章では現存する冥府彫像を尊像構成ごとに分類し、その傾向を読み解いていく。冥府彫像の尊像構成は大まかに以下の分類が可能である。作例の一覧については〔表1、2〕を参照されたい。― 12 ―― 12 ―
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