鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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つぎに、仏像の江戸出開帳について先行研究をもとに基本事項を確認しておく(注5)。まず、仏像の開帳は通常秘仏となっている像の厨子の扉や帳を開いて参拝者の目に触れるようにすることであり、開帳には本来の安置堂宇で行われる居開帳と、出先の寺院や建物を会場にして行われる出開帳とに区別される。いずれの開帳も近世に盛んとなり、17世紀半ばから19世紀(約200年間)の期間に江戸において行われた仏像の開帳の回数は1565回といい、そのうちわけは、居開帳が824回、出開帳が741回に及ぶという。これらの開帳の目的は参拝客からの収益であり、寺院の修理費や借金返済が目論まれたのであった。ここで、清凉寺像の江戸出開帳について当時の評判をみると、斎藤月岑の『武江年表』には「此の本尊江戸初めての開帳にして、貴賤群衆夥しかりしとぞ」とあり、喜多村筠庭の『嬉遊笑覧』には「江戸にて開帳あるに何時にても参詣群聚するは、善光寺の弥陀と清涼寺の釈迦仏また成田の不動などなり」と記されている(注6)。これらの評により、清凉寺像の出開帳は初回から大盛況であり、その後も善光寺阿弥陀三尊像、成田山新勝寺不動明王像と並んでいつでも参拝者が集まる像として人気を博していたことが知られている。この清凉寺像の出開帳の先行研究としては、塚本俊孝氏・海原亮氏による関連文書の詳細な考察が挙げられる(注7)。以下、両氏の研究を参考に今回の調査と関連のある事項についてまとめておきたい。まず、『武江年表』に記録される江戸時代における清凉寺像の江戸出開帳の開催年・会場等は表の通りである〔表1〕。初回は元禄13年(1700)で、5月から80日間行われている。この最初の出開帳は、寛永14年(1637)に焼失した釈迦堂の再建費用を集めることを目的としていたことが明らかにされており、主要な檀家である住友家の支援のもと成功を収め、目的を無事に果たして翌14年に再建成ったのが現釈迦堂である。また、出開帳の会場は2回目以降はすべて両国・回向院であるが、初回のみ護国寺で行われている。これは当時の将軍・五代綱吉の母桂昌院の参拝が事前に予想されたため、桂昌院建立の護国寺が会場に選ばれたとされている。また、清凉寺像の出開帳の回数は万延元年(1860)までで通算10回を数え、先に見た当時の評価のとおりいずれも盛況であったようである。さらに海原氏は、享和元年(1801)の出開帳について記録した住友家側の史料「出開帳控」において、会場で参詣者に販売する「開帳弘め物」の品目とその値段及び在庫数の記載についても考察しており、注目される(注8)。とくに釈迦像の姿をあらわしたという「中御影」及び「小御影」の存在は、模像の展開を考えるうえで非常に― 214 ―― 214 ―

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